帰るべき場所

 

 

「…秀吉様っ!!」

「大殿!!」

「秀吉殿っ!!」

 秀吉は深い溜息を一つ零すと、目頭を押さえ、積み上げられた書簡の山を指し示した。

「分かった、分かったから。もーええわ、これを片付けてから、行って来い」

 詰め寄られ悲鳴を上げる秀吉の姿を、遠巻きに見ていた竹中半兵衛が溜息を吐く。
四六時中この調子なものだから、執務は思うように進まない。

『はぁ……姫がいた頃は…破天荒でも……充実感があったのだがなぁ…』

 彼の手には一つの鉢植え。
"花子"と書かれた名札が刺さるそれは松の盆栽で、半兵衛にとっては深い思い出がある。
美しく整形するのに、かれこれ十五年もかけた年季物だ。

『…姫様……戻られないものか…』

 "花子"を眺め、再び肩で溜息を吐いた半兵衛の視線の先の窓枠には、三つの小さな鉢植えが並ぶ。
右から"諭吉""稲造""漱石"と記されたそれは、の盆栽だ。
盆栽初心者のの為に、保険として三つ用意し、半兵衛がその都度助言をして、ちょっとづつ形にしてきたものだ。

『半兵衛さん、この子達の事、宜しくお願いします…。
 持って行きたいけど、まずは職探ししなきゃならないから…。

 枯らしちゃうの可哀相だもの…』

 元々自分の盆栽に"花子"と半兵衛が名づけたのだって、の一言がきっかけだ。

『あ、盆栽ですか?? 凄く綺麗ですね〜。ワビサビの世界』

『お、お分かりになりますか??』

『うんん、詳しい事は全然。でも、この子が半兵衛さんに沢山愛されてるって事は分かりますよ。
 この子も嬉しそう。だからこんなに綺麗に枝を伸ばしてるのね』

『…姫様…』

『半兵衛さん、この子に名前つけてみたらどうですか??』

 盆栽に名前など、思いつきもしなくて、瞬きしかできなかった半兵衛には言った。

『私の故郷でも、生活に余裕のある人は盆栽とか造園をします。
 私が触れ合ってきた患者さんの中にもそういう人がいたんだけど、大抵名前を付けてるんですよ。
 最初は猫や犬じゃないのに…って思ってたんだけど、名前をつけると愛情も深くなるんですって』

『そうですか、名ですか』

『うん』

『あの、姫様…姫様ならどのような名をつけられますか…?』

『そうねぇ…もし私が盆栽を始めるなら……諭吉・稲造・漱石辺りかな? 何時も愛でてたいもの』

 その時の会話がきっかけになったのだ。
家臣の趣味にまで気を割いて、はふとした瞬間に 、

『あの盆栽はどうなってます? ちゃんと世話できる時間はとれてますか??』

 と柔和な笑みで語りかけてくれた。
そんなが、今となっては、このようなミニ盆栽一つ愛でる余裕をなくしている事が恨めしい。
半兵衛は"花子"の剪定を済ませた後に陽だまりへと出し、から預かる"諭吉""稲造""漱石"に水をやりながら、三度やり切れぬと溜息を吐いた。

 

 

「いっらっしゃいませー」

 再建が進む大通りの真ん中に、古くからある飯処がある。そこは牢人、民、商人、大工衆、職人集から武士までが幅広く利用する飯処で、外で仕事をする面々はよく世話になる店だった。
 その店の暖簾を潜った左近、三成、半兵衛は、店内から響いた声に思わず固まった。

「お客様何名様ですか??」

「…姫…何してるんですか??」

 茫然とする三人の前で、襷掛けに前掛けをしたが笑顔で言う。

「ん? バイト。働かないと食べて行けないからね、ここで雇ってもらってるの。で、お客様は何名様ですか??」

「さ……三人…だ…」

「はーい、では奥の机へどうぞ。三名様入りまーす」

 現代で茶店に努めていた事もあるというの働きぶりは、実に良かった。
てきぱきと動いて空いた机を片付け、お代を頂きおつりを払って、の素性を知らぬ者が繰り出す卑猥な冗談も笑って受け流している。

「注文入りますー。熱燗二本、きつね、たぬき、各一丁! 続いて焼き鳥、全て塩で…鳥皮、つくね、砂肝。
 刺身盛り合わせが二皿に、漁師汁定食が三つです」

「はいよ!!」

「お客様、ご注文お決まりですか??」

 颯爽と動き回るの姿に見惚れ、「様になっているな」と思う一方で目頭が熱くなり、眩暈を覚えた。
三成、左近、半兵衛が何も言えずにいると、は再度問う。

「お客様、ご注文お決まりですか??」

「あ、ああ……かけそば…」

「左近は、うどんを」

「わ、私は……そうですね、天婦羅そばを」

「はい、畏まりました。ご注文を復唱させて頂きます。ご確認ください。
 かけそば、うどん、天ぷらそばが各1食づつで宜しいですね?」

「…そ、そうだな……違いない」

「はい、お料理が出来上がるまで少々お待ち下さいませ。
 オーダー、続いてかけそば、うどん、天婦羅そば1食づつ入りまーすー!」

 席から離れて次の席へと注文を取りに行く。
新たに入って来た客を空席へと促し、席に空きがなければ、他の客との相席をまとめる。
手慣れているし、本人に苦はないように見えるが、つい先日まで天守閣に座していた人間のする事ではない。

「…姫様…」

 居た堪れなくなって、半兵衛が胃を押さえると、気がついたが白湯を持ってきた。

「サービスですよ、これからもどうぞご贔屓に」

 言葉もなく、己の拳を握り締めるしかない半兵衛に対し、はふと思い出したように問うた。

「そうだ、"花子"は元気ですか??」

「は、はい。とても…お預かりしている"諭吉"も"稲造"も"漱石"も、健在です」

「本当? よかった!!」

 嬉しそうに微笑んだは、それからすぐに別の客に呼ばれて、身を翻して行ってしまった。
忙しなく動き回るの姿を見た半兵衛は、こんな悔しさはないと、奥歯を噛み締めて己の掌を見下ろした。

『…私は……何も、出来ないのか……何故、この方がこんな目に……』

 

 

 それからまた五日が経った。
この頃になるとが飯処で給仕をやっているという話も城中に広がってしまっていた。
 門兵や厩を預かる兵までがを恋しがり、飯処へと詰めかける事が多くなった。
その為、飯処には常に行列が出来ていた。

「いらっしゃいませー」

 今日もは現代で叩き込んできたマニュアル接客をし続ける。
仕事にも慣れて来たし、雇ってくれた店の主も気のいい男だ。
ガラの悪い客がたまに来て荒れたりもするけれど、職人集や大工衆の棟梁が常連になってくれたお陰で、店内で本格的に暴れ出す前に、店外へ放り出してくれるので助かっている。
この生活も、これはこれで悪くないかな? などと、は思い始めていた。
 それもそのはず。現代で六畳と四畳の2LDKに暮らしていたの感覚からしたら、ボロかろうとも退職金として土地付き一戸建てをタダで手に出来た事は大きい。
暖房器具こそ備わってはいないが、風呂もあるし、囲炉裏もあるし、井戸もあるし、庭だってある。
南西に窓がある邸宅は日当たりはいいし、間取りも大きい。物件としては古さに目を瞑ればいい代物だ。

『それにこの時代の建物って大抵100年はもつって言うもんね。台風さえ来なきゃ万々歳じゃない?』

 元より権力に興味がないからしたら、今の生活は元々営んでいた生活に近いだけで、そんなに苦痛でもない。

、現在君主やってますが、本来は鍼灸師です』

 それこその感覚は、彼女が以前三成の前で語ったこの一言に集約出来てしまう。
そう、がこの地に降り立ってからずっと抱えている感覚、それはこういう事だ。
今までの生活は"衣・食・住・部下付きの職業についていただけ"で、現状は"その職を辞しただけ"。
皆と頻繁に会えなくなってしまうのは惜しいが、飯処に勤めてからはその心配もなくなった。
会いたいと思っていた面々が常連になってしまったからだ。
だからにしてみれば、今の生活に対する不満はなく、以前の生活に対しても、正直なところ、未練はない。
本来ならば周囲が気を揉むような事は何一つなかったのだ。
 けれどそうは思っていない面々のなんと多きことか。
その最たる例が、この男・斎藤龍興だ。
 この日、着任以来城内で怠惰に過ごし続けていた斎藤龍興は、の噂を聞きつけて店に顔を出した。

「これはこれは、麗しの姫」

「いらっしゃませ、何名様でしょう?」

 面倒な奴が来たなと思いながら、は努めて笑顔で対応する。
席へと斎藤龍興と彼の配下を案内して、注文を取ろうとするものの、が毛嫌いした彼の性格は何一つ変わってはいなかった。仕事中のを引きとめて、あれやこれやと自慢話と嫌味のオンパレードだ。

「貴方も何もこんな薄汚い店で働くこともないでしょうに…」

「お客様、これはこういう内装なんです。敢えて、風情を出しているだけですよ。
 それにお気遣いは大変有り難いのですが、自分で働いて稼ぐのって楽しいですから苦はないですよ。
 生きてるって実感がありますもの」

「気丈な方だ…そんな貴方だからこそ、わしは惹かれて止まぬ」

 そこで龍興は勝手にの手を取って撫でつける。
背筋が鳥肌になっているであろうは、引き攣った笑みを顔に貼り付けながら龍興の掌を取り、膝の上へと戻しながら愛想笑いを返した。

「あらいやだ、お上手なんですから」

『…帰れ、テメェ、この野郎!!』

「貴方の心一つでこんな薄汚い、ドブネズミのような生活からはオサラバ出来るというのに…。
 意地っ張りですな。まぁ、そこが可愛らしくていいのだが」

「ほほほほほ、有り難うございます〜」

『キモイキモイキモイキモイキモイキモイ… 』

 ねちねち口説かれて、いい加減がキレそうになった矢先、天の助けが入った。

「待たせたな、女神。そろそろ上がる時間だろ?」

 職人集と仕事をしている孫市が顔を出したのだ。
はすぐに身を引いて、相槌を打った。

「あ、うん。そうだね、でもお茶碗洗っちゃいたいから、もう少しだけ……孫市さんさ、その間、何か食べててよ」

「相変わらず営業上手いなぁ。で、今日は何が美味い?」

「魚屋さんが新鮮な貝持ってきてくれたから、漁師汁がお奨めだよ」

「じゃ、それで定食貰おうか。後、女神の頬笑み付きで」

「もー、またそんなことばっかり言って。ま、いいか。ちょっと待っててね」

 席に着いた孫市と笑顔で会話を交わし、は奥へと引っ込む。
舌打ちした斎藤龍興を見た孫市は、不敵に笑い、視線で言った。

『さっさと帰りなよ、旦那。まぁ、喧嘩なら何時でも普通に買うけどな?』

 代金を机に叩きつけるように置いた龍興は、奥で洗い物に精を出すを見て、一度口の端を吊り上げて笑った。
今に根を上げると、彼は信じていた。

 

 

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