千日戦争開幕

 

 

「なぁ、様は慶次様と夫婦になるんじゃないのか?」

「え? 雑賀の旦那だろ?」

「いやいや、左近様じゃないか? さっき舘で頬に接吻して…」

「でもよ、今は石田様が…」

 税率引き下げを訴えていた一揆衆の間から上がった囁き。
それが耳に入ったのか、は真っ赤になって三成を突き飛ばした。

「なっ、ち、違う!! みんな、誤解してる!! そうじゃない、私、まだ独り身だからッ!!」

 裏を返せば誰でも選べるという状態である。
民衆の「だから何?」的、反応を受けたは我が身可愛さで絶叫した。

「そうじゃないの、今のは、今のは……まだ災害復興だってままなってないし、かつての味方はこの前の一件が
 原因で挙兵しちゃうし、あのバカのせいで国庫はボロボロだし、どうしよう? って…。

 しかもこんな時に限って毛利に宣戦布告されちゃたし、早く対策練らなきゃ!! って、そう思って」

「「様!!」」

 追い縋って来た家康と、秀吉が諌めるも時すでに遅し。
ざわめいていた民衆が、の声を聞き一気に鎮まった。

「……ご…ごめん……」

 余計な事を言ったと、が顔面蒼白になれば、突き飛ばされて倒れていた三成が溜息と共に起き上がった。
彼は自分が従えていた部下の一人に左近を始め、諸将を呼びに行くように言いつけた。
それからの肩を抱き、歩き出す前に、城門前に詰めている民衆に向かい一喝した。

「追って沙汰する。しばし待て。
 抜けたところはあるが、貴様らも知る通りの名君だ。

 悪い結果にはなるまい、心せよ」

 ずるずると引き摺られるようにして連れて行かれるの姿を見た民は、口々に呟いた。

「やっぱり本命は石田様だ。でなきゃ、無礼討ちだろ。今の…」

「そうか? 何時もあんなだぜ? それで泣かされて慶次さんに泣きつくんだよなぁ」

 の勤めていた飯処で昼飯を食っていたらしい職人がどんぶりを抱えて言い返す。

「って事はやっぱ前田様か?」

「妥当だろう、一緒に暮らしてたんだし?」

「それいうなら雑賀様だってそうじゃない」

「いやー、どうかねー。左近様じゃないのか? 色々身の回りの物用意してたのはあの方だぜ?
 大人の余裕で自由にさせてんじゃないのか?」

「俺、意外に真田様だと思うけどな」

 君主も君主なら、民も民である。切迫した政治的事情などなんのその。
今や彼らの興味は、上がり切った税率や差し迫った戦よりも、の婿選びに移行していた。
が返り咲いた今、国の在り方についての不安はなくなったとの判断からなのだろうが、あまりにも呑気すぎる。
の持つ平和ボケした性質は、もしかしたら伝染するものなのかもしれない。

「……ううむ…わ、私はそろそろ…都に戻るとしようか…」

 一人放置されていた使者が踵を返した。
復権を果たした姫はどこか抜けてはいるようだがとても美しい。
もう少しくらいは傍にいて目で愛でていたい気もするが、どうも実情はそんなに悠長に構えていられる
ようなものでもないらしい。

君子危うきに近寄らず、という言葉もある。巻き込まれる前に退散するのがいいに決まっている。
 朝廷から来訪した使者は「また改めてお邪魔しよう」とだけ門兵に言いおいて、さっさと領を後にした。

 

 

 半刻後、毛利からの宣戦布告状を前に、評議場に集った面々は渋い顔をしていた。

「ついに避けられない事態になったな」

「うん」

 評議場の中央に置かれた巨大な机の上に広げられた地図を見下ろし、が溜息を吐く。
ポーカーフェイスを貫こうとしても思うようにはいかないのか、気持ち表情は引き攣り気味だった。

「で、どうする?」

「勿論、決戦しかないと思う…民を囮に使うような国よ? 降服勧告を受け入れるわけには行かないよ。
 でも、出来るかな…? 今のに…この状況を覆せると思う?」

「確かに…」

「損失は大きかろう。覚悟せねばなるまい」

は下らない、向こうもそのつもりのはずだ。もう準備が済んでいるかもしれないな」

「だがやんなきゃなんない。なら、普通に方法を探すしかないだろ?」

 左近が独白し、場が静まり返ると同時に、遅れて現れた孫市の声が響いた。

「孫市さん」

「遅いぞ、召集令を聞き洩らしたのか?」

 三成が不満そうに言えば、孫市はさらりと受け流した。

「まさか。情報集められるだけ集めてたんだよ」

「本当?!」

 が身を乗り出し、孫市は相槌を打つ。

「雑賀衆を舐めてもらっちゃ困るぜ」

「それで、どうなの?」

 躍動する胸を撫で下ろし、擦れる声で問いかければ、孫市は巨大な評議机の上に転がる指揮丈を取り上げた。
地図に先端を当てながら言う。

「入った情報から判ずるに、武田勢が詰めている出城から目と鼻の先に四万程度だな」

「…そんなに? どうして今の今まで、誰も何も言ってこなかったの!?」

 がヒステリックに叫べば、三成が混ぜ返した。

「決まっている、あの男のせいだ。
 あいつのせいで本来の役職から解かれた者は数知れず…情報統制とて乱れに乱れていて不思議はない。
 お前相手であればまだしも、あの男の為に諫言しようなどと思う者はいないだろう」

「そんな!! 気持ちは分かるけど…だからって、どうすりゃいいのよっ?! 
 この書状、見てよ!! 返答期限とっくに過ぎちゃってんのよ!?」

「どの道蹴るのだから問題はなかろう」

「だとしてもよ!! やりようによっては時間稼ぎ出来たかもしれないじゃない!! 
 本当にもー、なんで誰も気がつかなかったの?!」

 八当たりのようにが頭を抱え込めば、秀吉が身を小さくした。

「普通にすんません、請求書の束に埋もれとったんじゃ」

「あの野郎…!! どうせならあいつもぶん殴っときゃよかった!!」

 が孫市の手の中から指揮丈を奪い取り、忌々しげに叩き折った。
折った指揮丈を放り出し、大袈裟に身ぶり手ぶりをつけて皆に問いかける。

「どうすんのよ?! 四万よ? 四万!!!! 出城にいるのは武田騎馬隊二万だけなのよっ?! 皆分かってる?!
 下手すりゃ、彼ら見殺しにするようなもんじゃない!!」

 がなり立てるを宥める家康や秀吉の間を縫って、左近が進み出た。
彼にしては珍しい事もあったもので、心持ち険しい表情をしていた。

「申し訳ないんですがね、姫。これで終わったと思わない方がいい」

「え…どうして?」

「連中、わざわざ宣戦布告してきたんだ。今回ばかりは、本気ですよ」

 じゃ、今までのは冗談か何かだったのかと愚痴りたくなったが、事はそんなに呑気に構えられているような
話ではないのだと、左近の眼差しが語っていた。

「出城に睨みを利かせるのに四万って事は、連中の後詰はその半数は固いでしょう」

「合わせて、六万?」

「遊撃隊もいるだろうな。実際に戦場に出てくる兵数はもっと多かろう」

 三成が言えば、は喉を鳴らした。

「殿」

 窘めるような視線を左近が三成に送り、三成はその視線をさらりと受け流した。

『本当の事だろう』

『そりゃそうですがね、いきなり言うことないでしょう。物事には順序ってものがあるんですよ』

『ふん』

 二人の間で交わされた視線での会話を言葉にするとするならば、およそこのようなものだ。
二人の視線の動きからそれを察したのか、が自然と身を固くした。
落ち着かないのか、己の掌を握り締めて、交差させた指先を忙しなく動かしている。
そんなの肩に手をかけて、努めて軽い声で「気に病む事はない」と言ったのは孫市だった。

「戦ってのは兵の数が全てじゃないさ」

「それは、そうだろうけど……でも、圧倒的に数で差が出来てる。そうでしょう?」

 その場に居合わせている面々を見やれば、誰一人として否を唱える事はなかった。
は頭を抱え込んで、その場にずるずると力なく座り込んだ。
窓の外ではカラスが鳴きながら飛んでゆく。
夕焼けが大地に吸い込まれ、徐々に夜の帳が降りてくる。
その変化が、刻一刻と迫っているであろうその瞬間の予兆のように思えてならなかった。

「ごめん、皆…一晩でいい、一晩でいいから…私に考える時間をちょうだい…」

「分かった」

 全員が身を引く最中、は低い声で言う。

「とにかく、どうにかしてこの事態を回避しないと……。とりあえず、挙兵した皆と連絡を取って、真意を確かめて。
 もし仮に、本当に挙兵したのだとしたら…」

「どうするつもりだ?」

「……民だけでも引き受けてもらえるように…とりなして…」

 腹の底から吐き出された言葉は仁に溢れていた。
この状況下で、女の身でありがなら保身ではなく、自分を慕い集う民の命をまず第一に案じた。
自覚は薄いのだろうが、彼女の中には確実に将器が備わり、そこには仁愛が溢れている。
 それを久々に己の目で確認して安堵し、同時に護りたいと、そうせねばならないと諸将は痛感する。
決戦の時は、すぐそこに差し迫っていた。

 

 

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