は一晩自分の部屋へとこの件を持って帰って考えあぐねた。
逃げたい、逃げられない。
避けたい、避けられない。
尻込みする気持ちが湧き上がれば、同時に、それを否定する凛然たる思いが湧き上がる。
そうした葛藤を繰り返し、東の空が白んできた頃。
不思議との頭と心は、波が引くように静寂を纏った。
『私が誰かに国を譲る事で一人でも多くの人が生き残れるというのなら、それでいいと思っていた。
例え誰かが私の代わりになったとしても、その人の下には秀吉様と家康様がいる…。
だから、絶対に平気だと…信じていた……。
だけど…その選択肢は、もう選べない』
以前、慶次、左近、幸村に打ち明けた願いにも似た話。
それは先の竹中半兵衛のクーデターを経て、絶対に選べぬ選択肢になったのだと痛感した。
事情がどうであれ、自分が主としての地位を捨てた時。
待っていたのは、心強い配下であった面々の独立割拠という事態だった。
その上彼らは、まるで神託を受けた巫女を奪い合うかのように一斉に兵を上げた。
その動きから見ても、が誰かに権利を譲渡し、野に下るという方法は許されぬ術となったのだ。
「姫だから、皆つき従ってんですよ」
左近の言葉が、耳に生々しく蘇る。
あれは、励ます為の言葉だと判じていたがそうではなかった。
あれこそが、現実なのだ。
『なら…どうする?』
自室に持ち込んだ地図を見下ろし、考える。
『どうもしない 、譲ることなんて、もう出来ない。
だって譲っても、平和になんか、全然ならないんだから。
なら、護るしかない。皆と生きて行く道を作るしかない』
その為に必要な事が、戦なのであれば。
『勝つ為に、最善を尽くす。一人でも多くの人を生き残らせる為の方法を、模索する。それだけ』
迷いを捨て去るようにきつく瞼を一度だけ閉じて、再び瞼を開いた。
ここに来て、初めて、は己が君主として立つことの意味を理解し、受け入れた。
「今回の場合、厄介なのはこっちにあらゆる意味で余裕がないという事だ」
「持久戦に持ち込んで、勝機を待つしかあるまい」
「じゃが、朗報もある」
「浅井長政、伊達政宗、直江兼続、彼ら三人の挙兵は様の復権を望んでのもの。
彼らと一戦交えねばならぬような話にはなりますまい。現に彼らは関所破りをしておらぬようじゃ」
「武田は元よりそのつもりだが、斎藤家との攻防は続いたままだ。当分参戦は期待出来ないな」
翌朝、早くから評議場に詰めている家臣達の装いは、皆鎧兜という状態で、決戦の機運を実感させるものだった。
そんな彼らの前に現れたは、とても冷淡な目をしていた。
彼らが交わす会話から、現在家が置かれている現状を理解したのか、落ち着いた様子で小さく息を吐く。
の瞳に浮き上がる光に並々ならぬ何かを感じたのか、左近が顔を顰めた。
「姫?」
いや、彼だけではない。
三成、孫市、慶次もまた眉を動かした。
自分の身を、心を案じてくれる面々に対して、は自嘲的な笑みを見せた。
「お願い、皆してそんな顔しないで。綺麗事ばかりではいられない…ようやく、そう腹括ったんだから」
そう告げて、は己の席に腰を下ろす。
「私なりに色んな事を考えてみた。それを全部一気に話すから、皆で検討してもらってもいいかな?」
「伺いましょう」
皆が腰を下すのを待って、は口を開いた。
「現状として、領地の復旧は済んでない。かといって、戦争回避は無理。なら、する事は一つ」
「決戦ですか?」
が左近の言葉に頷けば、一瞬場が沸き立った。
それをが掌を動かして諌めて言う。
「戦はする、でも絶対に勝つ。その為には手段は選ばない」
「姫?!」
「私ね、もし自分がこの国を攻め滅ぼすとしたらどうしようかって考えたの。
その上で、それを覆すにはどうしたらいいのかを、考えた。それで、思いついたの」
目を見張る左近や三成の視線をあえて無視し、は己が考えた策を披露した。
「まず、北条・毛利と当たるに際して後方の不安を絶ちたい。
幸い、併呑した国々の向こう…北に広がる大陸は、別の勢力同士がもめ続けててこっちに飛び火はしてこない。
そこを使わない手はないわ。半蔵さんに暗躍してもらってそっちの情勢を密かに揺さぶる」
何を言い出すのかと、三成、左近、秀吉は息を呑んだ。
「どこに付くという意思表示はいらないわ。むしろ全部の国と同盟を結ぶ。
その際にこっちはかなりの財政難にある事を示しておく。
出来れば、次に攻め込める隙があるのは""だって思わせられると最高ね。
その上で、ピリピリしている勢力同士にお互いが戦をしなくてはならなくなるようなネタを流す。
勿論、出所はバレないようにして。
で、双方が動いて、救援依頼や共闘依頼が来たら、引き受ける。交互に。
それで財源を確保したら、復旧と戦に回す。とにかく、が毛利・北条に専念出来る場を作るのよ。
作ったら、ガチで毛利・北条連合とやり合う事になるんだけど、ここは食城の計で行こうと思う」
「食城の計? なんですか、それ…?」
「まず、全体を小分けにして出陣。前線で奮戦する隊の後方には後詰でしょ? その後ろにね、建築部隊をつける。
前線を本隊と後詰で維持してもらってる間に、砦か出城を二種類交互になるように作る。
片方は堅牢な物を、もう一方はこの際、突貫工事でいいわ。
堅牢な出城、または陣のタイプAには投石機と弓兵部隊を主力として配置して、本隊と後詰の支援をしてもらう」
の説明に合わせて高坂昌信がこくこくと頷きながら、書面に筆を走らせる。
彼の前に立つ三成、左近、秀吉は兵站を暗算でこなしているのか、黙ったままだ。
「もう一つの出城、または陣のタイプBは手薄にして、火薬壷を配置する。
この城が出来次第前線部隊には戦略的撤退をしてもらう。
その築いたばかりの出城に、敵の部隊を引き込んでもらうのよ」
が言わんとしている事を悟ったのか、左近が目を丸くした。
「姫、まさか…?!」
はこくりと頷いた。
「当たり。食城の計っていうのはね、作った城に誘いこんだ敵を、逆に包囲して殲滅、または投降させていくのよ。
は今、兵力もお金にも余裕がない。なら、あるところから貰ってくる。
お金についてはさっきいった方法で稼ぐとして、問題は兵力よ。
よそに借りればその分の借りが出来るけど、攻めて来た連中から吸い上げれば、借りにはならないわ」
「…なんとまぁ…」
「随分とえげつない策を考えるな」
「生きるか死ぬかの瀬戸際よ。手段なんか選べない、そう痛感した。
で、どうかな? 私の頭では、これで精一杯なんだけど……少しは使えそうかな??」
「使いましょう。だが、どうせやるならとことんえげつなく行きましょう」
左近の不敵な笑みを受けて、が瞬きする。
後に家と毛利家との間で起きた血で血を洗う大決戦と言われた一戦が、今、幕を開けようとしていた。
その日、太陽が天高くに鎮座した頃、戦場は大きく動いた。
何れはそうなると踏んでいたが、ついに毛利・北条連合の攻撃が始まったのだ。
逸早く察知した武田騎馬隊がこれを阻止すべく、独断で隊を組んで迎撃。
丘陵地帯の中腹で、敵軍二万と一万弱の騎馬による領土争奪の土煙が上がった。
「ついに始まったようじゃな」
城に齎された報を受けて、山本勘助、馬場信春が立ち上がる。
彼はから許しを得て、武田騎馬隊を指揮する為に小隊を率いて城を出立した。
幸運だったのは、彼らと入れ違いになるように、旧城から浅井長政が三千の兵を率いて着城した事だ。
「馬上よりご無礼仕る!! 浅井長政、馳せ参じ候!!」
「長政さん!!」
「我が君、どうかご安心を…敵は我が槍で討ち払って御覧に入れましょう」
長政の声を聞いたは、安堵したように小さく一度頷いた。
「いってらっしゃい。無理はしないでね」
戦装束に身を固めた慶次を一度屈ませて、は強く抱擁する。
これは特別な意図があるのではなくゲン担ぎのようだ。山本勘助、馬場信春も同じようにしたらしい。
「あんたもしといてもらいなよ、きっと運が向いてくるぜ」
慶次に言われて、目を瞬かせた長政に、は両手を広げて差し伸べた。
「そのままでいいから」と言われて、馬上で体を傾ければ、少し背伸びしたの両手が長政の背をしっかりと抱え込んだ。景気づけでもするようにぽんぽんと背を撫でる。
「信じてるから。必ず、助けに行くから。だから無茶はしないでね」
の言葉に相槌を打って、長政は身を起こした。
率いて来た兵を慶次の預かる本体へと組み込むように、配下武将に視線で指示する。
「長政、伝令から聞いてると思うが…」
「承知しております。慶次殿、参りましょう」
「ああ」
出撃準備を整えていた本隊一万五千に、長政の連れて来た三千が合流し、隊列を素早く組み直した。
「長くても十日だ」
「頼みますよ、お二人さん」
後詰はそれぞれ五千で、三成、左近が指揮を務める。
彼らは城出立の瞬間まで微調整に追われているようで、慌ただしく城内を歩き回っていた。
「…頼むぜ…それと…」
『さんの事は頼む』
「分かってます」
「案ずるな、俺達が発った後も、秀吉様がいる」
合間を縫って声をかけてきた二人に慶次が視線で言う。
左近、三成は簡潔に答えた。
出城で迎撃に当たる二万の騎馬隊救援に向けられるのは、本隊と後詰を合わせてもたった二万五千。
本隊だけで四万動員できる敵軍との差を考えると、遥かに少ない。
奇策に用いる兵は後詰に回された兵より更に少数だ。
けれどもこれが新城周辺地域で今掻き集められる兵数の限界だった。
昼だというのに、城下は静まり返っていて人気がない。
開戦の報が広がった事で生まれた葛藤が、城下に住まう人々の心に生じているが故の風景だった。
よくよく見れば、城下町の要所に立つ巨大な掲示板に貼り付けられているのは、増税令の撤回と徴兵を呼びかける
文面だ。この激文にどれだけの効力があるのかは、まだ分からない。けれども今はこれに頼るしかない。
「じゃ、行くか」
彼が腹部を軽く蹴ると、松風が歩み出す。
一万八千の兵の悠然とした進軍が始まる。
城の中に戻るように三成、左近に促されてが踵を返した。
何度も何度も振り返って遠くなってゆく若武者の後姿を眺めるの目には不安が大きく表れていた。
城下町を離れて、徐々に速度を上げた松風の横に騎馬をつけた長政が、ふと独白した。
「…不思議なものです」
「ン?」
「我が君に従い、まだ数ヶ月。我らは数々の困難に見舞われた。
けれども、我が君は必ず立ち上がる。そしてその度に、は強くなる」
「そうだなぁ。これが天意ってやつかもしれないねぇ。だが今回ばかりは…」
「…はい、劣勢です。それも覆しようのない…」
分かっていると、慶次が無言で肯定した。
長政が声を潜めて言った。
「市には、覚悟を言いおいてきました」
「長政!?」
慶次が顔色を変えた。
ありえない話ではない。
戦とは常に勝者の影に敗者を生むものだ。
そしてそれが命の取り合いであれば、敗者に待つのは死以外の何物でもない。
その事実を、可能性を受け入れる用意をしておけと、最愛の妻に言いおいてこなくてはならない男の心情はいかばかりのものか。妻帯者ではない慶次であろうとも、分からないはずがなかった。
|