剣豪の望むもの

 

 

「ここ。どうも黒田官兵衛は、先の北条への侵攻を、救世主による秀吉の首切りと考えてる節がある」

「えっ、マジで?!」

「うん。春日源助が記したこの書はかなりの量になるけど、後世に記したものにそれらしい行があるんだ」

「うわぁ…誤解かよ!! そんな事でここまでやるのか?!」

 弟が驚きも露に身を乗り出せば、兄が心底困っているという様子で溜息を吐いた。

「彼も必死なんだよ。救世主の元から秀吉を取り戻して、再起を謀らせようって考えなんじゃないかな」

「うわぁ、マジかよー。面倒臭ぇー!! 超、面倒臭ぇー!! なんだよ、コイツー!!!
 そのまま黒田が救世主の軍に行った方が断然早いじゃんかよ!!」

 弟が絶叫し己の頭を掻き毟る。
喜怒哀楽がはっきりと表れる弟の姿を見ていると、冷静になれるのか、兄は苦笑した。

「仕方ないよ。救世主がいるのは21世紀より遥か昔の戦国なんだ。
 GPSなんかないし、互いの思いを簡単に伝える術もない。

 それにまだこの時点では救世主も秀吉も敵の軍師が官兵衛である事を知らないんだ。動くに動けないさ。
 この戦は、この書にある通り、本当に血で血を洗う大決戦だったんだね」

「はぁ…オレらに出来ることって、なんかないんかなー」

 兄の冷静な弁を受けて、弟も多少冷静さを取り戻したようだ。
肩から力を抜いて、椅子に腰を落とした。

「そうだね…このままは、どうにも不味い気がする」

 兄が声のトーンを落とし、視線を鋭くする。
弟が瞬きし、兄の顔を覗き込んだ。

「なんだよ、珍しく真剣じゃないか」

「うん、この頁を見てみなよ」

「ん? あれ、これ昨日まで白紙だった頁じゃないか」

「そうなんだ。今朝調べたら半分文面が浮かび上がってた。出てきた内容が、ちょっとね。引っかかる」

「内容? どれどれ?」

 弟が書を取り文字を目で追う。

「…敵精鋭部隊による本陣急襲?! 主君が手傷を負うって…お、おい、これって」

「うん、不味い。絶対に」

「行くか?! 兄貴」

「そうしよう。名だたる武将はこの通り皆出払っていて、彼らにはこの奇襲隊を追い払えないはずだ。
 という事は、僕達が行かないと、救世主はまず間違いなくここで死ぬ」

「そうだな、助けよう。それしかない。でも…正確な時間が分からない」

「ああ。源助が何か、分かり易い手がかりを記してくれるのを待つしかない…毎度毎度思うけど、歯痒いよね」

 

 

「どうして?! なんで敵の軍勢が途切れないの?! これだけ食城の計で吸い上げてるのに…!!」

 本陣の櫓から戦場を見下ろしてが呻きにも似た声を上げた。
顔にははっきりと焦りと悲しみが浮かんでいたが、無理もなかった。
元より兵力に乏しいは、後方から送られてくる義兵の数も、現段階で戦場に身を置く兵の数も、毛利・北条連合が投入して来る数に比べれば少ないものだった。
辛うじて吸い上げた兵を戦場に出して拮抗を保ってはいるが、それとて全員が全員、五体満足、無事に帰ってくるわけではない。この戦は完全に消耗戦の様相を呈している。
 屍は山を築き、陣の中には負傷者が溢れかえる。
散々たる自軍の現状を目の当たりにし続けていれば、現代育ちのの心に強い痛みが走るのは当然だ。

「…姫、ちょっといいですか…」

「あ、うん。今降りる…」

 珍しく険しい顔をしている左近に呼ばれて物見櫓から降りる。
歩みを進めて、本陣の中に設営された作戦会議用の天幕へと足を踏み入れた。
そこで彼は声を潜めて話しだした。

「どうしたの?」

「ちょいと不味い事になりました」

「もしかして、兵糧?」

「えぇ、まぁ、それもぎりぎりになっちゃーいるんですが…それよりも…」

「何?」

「薬です、様」

 家康が天幕の中へと入ってくる。彼の顔にも多少の疲労が見て取れた。

「薬?」

「負傷者が増え、外は屍の山です。疫病が発生して不思議はない環境だ」

「疫病…?!」

「はい、発症した者は二十と余名。薬を支給して蔓延は辛うじて抑えましたが…」

「そうか、何時までももたないね。こんな大人数じゃ…」

「はい…如何しましょうや?」

 息を呑むの前で、左近は冷徹に言った。

「老兵、負傷兵を優先的に先陣に置きましょう」

 が目を見開いて顔を上げれば、彼は冗談ではなく、本心からそう進言していた。
バシン!! と、大きな音が鳴って、左近が顔を伏せる。
ぶるぶると震える掌で彼の頬を打ったは、大粒の涙を零しながら言った。

「二度と……二度と、そんな事…言わないで…お願い…」

「…姫…」

「左近さんの口から、そんな悲しいこと…聞きたくない!」

 は肩を落として、声を殺しながら泣く。

様、戦はそういうものにござる。左近殿を責めてはなりませぬ」

 懸命に取り成そうとする家康の言葉に小さく頭を振る。

「…分かってる…でも……でも…皆、まだ生きてる…」

「しかし!!」

 苦渋の決断を迫られたは、腹の底から声を絞り出した。

「…火を…用意して…」

「え?」

「…こういう場合、疫病は人の死体から発生するの…」

 左近と家康が視線を交わす中、は苦しげに言った。

「…だから…死体を焼けば……当面は抑えられるはず…」

「…分かりました、左近が行きましょう」

 天幕を左近が出て行く。
ずるずるとその場に座り込んだの背を家康が抱え込んだ。

「うっ…ううっ…なんで……なんでこんな事まで…どうして、戦争なんて…」

 士気に関わるからと懸命に声を殺して泣くを、家康は何度となく撫でて労わった。

「…ごめんなさい……ごめんなさい…」

 私欲の為ではなく自らを慕い寄る者の為に戦い、敵味方分け隔てることなく人の死を悼む。
そんなを見ていれば、彼は痛感する。

『…これこそが、様が天より使わされし証か……。
 …しかし天よ、貴方は何を望む? この方をこのように苦しめて、一体何を欲するというのか?』

 家康は己の手の中で懸命に苦しみを堪えるの心に、何時か影が射す事になるのではないかと、限界が来るのではないかと、漠然とした不安を覚えていた。

 

 

 その夜、に近い丘陵地帯が大きく燃えた。
猛り狂う炎を見た兵は毛利もも関係なく、皆、ただただ言葉を失った。
屍の焦げ付く匂いが腐臭を上回り、夜が昼と化す程の灼熱の炎を見て、は静かに両手を合わせた。
が自然と見せた動作に、兵は一人、また一人と倣うように手を合わせて目を閉じた。
 だが対極にある毛利・北条の陣中には、畏怖の念が強く刻まれる事になった。

「何という事だ…かような地で死した者を、尚、火で焼くとは…」

の君主は悪鬼か?!」

『……あのような者の下、秀吉様は置いてはおけぬ…早急にきゃつの首を取らねば…』

 ギリリと奥歯を鳴らした黒田官兵衛の横顔には焦りにも似た怒りが貼りつく。
彼は夜が明ける前に毛利隆元の前へ出ると進言した。

「隆元殿、兵站については御心配には及びませぬ。我が国元より随時送られてくる手筈になっておりまする。
 毛利家の肥沃な力と、北条殿の武名の前に立ちはだかる者がありましょうや。正念場はここと存ずる」

「無論だ。の兵には疲れも出てくる頃合よ。圧倒的な兵力で押し切るのだ!!」

 頭を縦に振って、官兵衛は隆元の御前を辞す。

「準備を急げ!! 総攻撃をかけるぞ!!」

 波状攻撃を主体としていた毛利の陣構えが変わる。
続々と横並びに兵馬が整ってゆく。

「姫様ー!! 敵方、総攻撃を掛けてくる模様!!」

 の陣にホラ貝が鳴り響き、伝令が飛び交う。

「奴さんら、痺れを切らしたねぇ」

 粥を腹の中に掻き込んで、慶次が鉾を取り立ち上がる。
兵が松風を伴い彼の傍へとやってくれば、慶次は一片の疲れも見せずに松風に騎乗した。
彼が松風と共に陣から出れば、彼の後方に続々と騎馬が揃い始めた。
後続となる騎馬を率いるのは、山本勘助・馬場信春といった武田勢だ。

「この兵力差、出城や陣で耐え切れるものと思うか?」

「さてな…まぁ、やばくなったら俺は彼女連れて逃げるだけさ」

「ふん…それを聞いて安心した」

 三成と孫市が視線も合わせずに言葉を交わしながら、それぞれの持ち場へと移動してゆく。
三成の指揮を待つ弓兵が矢を構えて息を呑む。
孫市の指揮を待つ投石兵は、慌ただしく走り回り、投石機の準備に追われていた。
 秀吉、家康が本陣の守りを固め、長政・井伊が歩兵の隊列を整える。
蜂須賀小六・豊臣秀長・伊達成実も歩兵を率いて慶次達が率いる騎馬隊の後方へと槍を携えて並んだ。

「行きますかね」

 本陣後方に構えた蔵から出てきた左近の後方には三機の大筒があった。

「左近さん」

「孫市さんが盗って来た火薬や砲弾じゃ、これが精一杯です。だが、ないよりはいい」

「左近さん、あのね…」

 叩いた事を謝ろうと駆け寄るの肩を優しく撫でつけて、左近は笑う。

「姫、いいんですよ。ちゃんと分ってます」

「でも…」

「姫は何時もそうだ。誰にでも、お優しい。そんな姫の前で言うべき言葉じゃなかった。
 は必ず勝ちます。だから、泣かずに、笑っていて下さい。俺は、姫の笑ってる顔の方が好きですよ」

 柔らかく笑って左近は歩き出す。
まるで今生の別れでもしているかのようで、は思わず左近の陣羽織を掴んだ。

「おわっ!!」

 がくん!! と、左近が仰け反れば、は左近の顔を覗きこんだ。

「生きて帰らなきゃ、絶対にだめだからね?」

「はい、心得てますって」

「うん、ならいいの」

 掴んでいた陣羽織から手を放し、はぎこちなく、無理やり笑おうとする。
身を起こした左近がそんなの頬を一撫でし、ゆっくりと頷いた。
 彼が砲撃に適した高台を目指して進軍し始める頃、向かい合う両軍の先端で決戦の火蓋が切って落とされた。

「…X月X日…快晴…」

 本国城三階、執務室にて。

「毛利隆元軍総勢五万五千・軍総勢二万動員……雌雄を決すべく、総攻撃、開始するもの成り…」

 報を受けた高坂昌信が筆をとり、一冊の冊子に筆を走らせる。
彼が本を閉じるのと同時に、天守を預かるはずの竹中半兵衛が現れた。

「高坂殿、お頼みしたい事があります」

「なんでしょうか?」

 

 

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