願い事一つ - 三成編

 

 

「……」

 そんなの肩に這わせていた唇を放し、顔を上げると、三成はの顔を覗き込んだ。
労わるように、慈しむように、頬を撫でて、抱きしめる。

「今、怖れ、嫌悪しただろう? 俺であっても…。
 …いや、見知った者だからこそ怖れたのかもしれぬが…今はそんな事はどうでもいい。
 いいか、。敗戦となれば、こんな衝撃よりもお前に襲いかかる現実は、もっともっと残酷なのだ」

「…あ…」

「想像してみるがいい」

「…な…に?」

「お前を慕う兵が次々と首を取られる中、お前は最悪の場合……」

 自身の口から言うのは、例えそれが可能性の話であってもおぞましいとでもいうように、三成は一度口を噤んだ。
けれども核心に触れなくては、真に伝えるべきことは伝えられないのと腹を決めたのだろう。
苦渋の判断とでも言うように、険しい顔をして再び口を開いた。

「縛についた重臣の前で、数多の敵兵の中に引き出され凌辱される。
 相手が将であればまだいい…だが、実際は飢えた雑兵に…蹂躙されることだろう…。
 もっと劣悪な事を考える者であれば、俺達の内の誰かに、お前を抱かせるやも知れぬ…」

「いや……やだ……そんな…」

「ああ、そうだ。そんな事は、させない…絶対に」

 ぽろぽろと涙を零して怯えを露にするの事を強く抱きしめて、三成はいう。

「俺の言った事は、ただの想像に過ぎぬと、お前は思うのだろう?
 だがここは戦場だ。これは想像では済まないのだよ。
 本来、戦とは、男のものだ。では何故男が相争うと思う?」

「…思想とか、矜持とか、それから復讐とか…あとは……領土とか、名声とか…お金の……為とか?」

「ああ、そうだ。皆、それぞれ欲しいものがあり、時に守りたいものがあるからこそ、争う。
 胸に理想と信念を掲げ、それぞれの大義を元に手に武器をとる。
 だが一度戦場に出れば、勝手は変わる。時に掲げていた目的が、矜持が、一瞬で霞む事があるのだ」

「どう…して…?」

「女だ」

「おん…な…?」

「ああ。長い間女を愛でられずにいれば、男の中に渦巻く衝動は目的や大義を容易に霞ませる。
 それを防ぐ為に小姓がいるのだ。敵方にもそうした役割で従軍する者はいるだろう。
 だがもしそこに、真に女がいたとしたらどうだ? 若い男と、うら若き乙女…どちらに目が向くと思う?
 最後まで言わずとも、敏いお前であれば分かるだろう?」

「……っ…」

 恐怖がそうさせるのか、の胸が大きく波打った。
びくりと震えて、体が強張る。
頬を一筋の涙が伝い落ちた。

「ここは戦場だ。お前は名家の淑女と言うわけではない。後ろ盾になるような伝ももたぬ女だ」

 言いたい事は分かるな? と視線で問いかけながら、三成は話し続けた。

「勝てば官軍、負ければ賊軍だ。
 官軍となった者が女の色香に惑い、卑劣な行為に及んだとしても、誰も何も言わぬ」

「でも…だって…大義は…? そんなことしたら…」

「お前の言いたい事は分かる。だが感情は、理性を越える。特にこのような場にあってはな。
 例え掲げた大義が霞むとしても、全ては戦場にて、衝動が起こした行動。後にいかようにも修正はきく。
 の兵がお前に手を出さぬのは、お前を心底慕い、神聖視しているからこそに他ならぬ。
 だがあやつらは違う……あやつらにとっては、お前はただの"女"なのだ…」

 切々と訴える言葉の中に三成が抱える不安が強く滲む。

「秀吉様も、俺も、慶次も、左近も、長政も、家康ですら、すぐに首を打たれる事はないだろう。
 才知長けるものであれば、服従という道もある。だが女には、交渉の術が与えられる可能性は低い。
 特にお前は…無名であり、後ろ盾もないのにこれ程の抵抗をして見せた。
 煮え湯を飲まされた者にとっては、魅力よりも…恐れの方が大きい。貶めねば、己が威光を示す事が出来ぬ」

「威光? …示し…?」

「ああ…お前は、聖女ではない。ただの女だと、皆に見せる必要がある。
 その為には、お前を快楽の淵に落とし、狂わせてしまうのが一番早い。
 そしてそれこそが、その時、あいつらの行動を正当化する大義となる」

 三成はそこで言葉を区切り、はっきりと言い切った。

「もう俺の言っている事が分かるな? 敵の手に落ちた時、お前に待っているのは…生き地獄だけなのだ」

「……や…だ……そんな……そんなの……三成、三成…」

 は恐怖を示すように首をふるふると左右に振り、三成の肩にしがみついた。
応えるように三成が両手でを強く抱きしめる。
それから三成は、それこそ断腸の思いだと言わんばかりの声色で訴えた。

「…脅えなくていい、俺達が護る。必ず、お前が逃げ切るまでは、護りきる…」

「そ、そんな…逃げ切るまでって……それじゃまるで……」 

 その先を言葉にするのが恐ろしくてが言葉を濁せば、三成は言う。

「…ああ、そうだ。お前の想像する通りだ。
 が負けようと、民や兵、俺がどうなろうと…そんな事はどうでもいい」

「良くない、良くないよ…」

「いいんだ、俺は…ただ、お前さえ…生きて、落ち伸びてくれれば、それでいい」

「三成、何言って…」

 上ずる声で、溢れる涙を拭う事も忘れてが懸命に何かを言おうとする。
けれどもなかなか想いが言葉にはならない。
歯痒さを噛み締めていると、三成の声が耳に触れる。

「…頼む…頼むから、これだけは…聞き分けてくれ……」

「…三…成…」

「俺は、怖い……敗北し…お前が敵の手に落ちることを考えると……たまらない…。
 先の話が想像であればいい。だが、その想像は、刻一刻と現実になるべく差し迫って来ている。
 これが俺自身の身に起きるのであれば、まだいい。どのような辱めも、苦痛にも耐えて見せよう」

 否定しようにも否定しきれぬ現実がある。
反意を示そうにも、彼を説き伏せる言葉が見つけ出せない。
三成は一層強くを抱きしめて、声を漏らした。声は擦れていた。

「だが、俺は……俺は、お前に手を出されては………気が狂う…」

「…ッ!」

 三成らしからぬ弱音に、否、言葉の中に秘められた想いの強さに、は驚いて息を呑んだ。

「…頼む、。逃げてくれ、逃げて、逃げ押してくれ。
 兼続であれば、きっと察知してすぐにお前を保護し、以後は死守しよう。何があろうとも。
 だからお前は兼続の保護の元、女としての幸せを…探してほしい…。
 仮に俺達が縛され、が実情滅んだとしても、気にしてはならぬ。引き摺ってはならぬ。
 仇を打つなどと夢を追わず…静かに、ひっそりと…生きていてほしい…」

「何言って、何言ってるの! まるで…まるでその為には、自分は死んでもいいみたいに聞こえる!」

「…ああ、そうだ。俺はそう言っている。
 構わない…お前を護れるのであれば…俺の命など……もう、どうでもよいのだ」

「良くないっ!! 全然、良くないよ…皆の命はとても大切なんだよ?
 その皆の中に、三成だってちゃんと含まれて…」

 が懸命に声を張り上げれば、三成は一層強くの事を掻き抱いた。

「……頼む、聞き分けてくれ……」

「三成、ちゃんと聞いて…お願いだから、悪い想像にばかり囚われないで!!!」

「……残念だがこれは、想像ではない…すぐそこまで迫っている現実だ」

 顔を上げて三成はを真っ直ぐに見下ろした。
その瞬間に向けられた眼差しの中には沢山の感情が渦巻いていた。
はすぐには言葉を紡ぐことが出来ずに、口篭った。
 三成は小さく微笑み、両手での頭を抱え込む。

「…っあ…え…?」

 額、瞼、鼻筋とゆっくりと三成の唇が触れて、最後に唇。
触れ合った場所から伝わる熱さには茫然とした。

「いいな、今すぐ支度をしろ。すぐにでも発てるように」

 身を起し、突き立てた脇差を取り鞘へと戻す。
身を翻した三成の横顔には、先程までの動揺や雑念はない。
彼の顔は沈着冷静を絵に描いたような将の顔へと戻っていた。
 の返答も聞かずに天幕を後にした三成の出て行った方向を眺めて、はゆっくりと身を起こす。

『…今…なんか…凄い言葉を聞いた気がする……』

 乱れた襟元を正し、感触の残った己の唇をは指先で触れた。
怪力を持つ優男に思うまま掻き抱かれた全身に、余韻のように痛みが残る。
その余韻は、今の出来事が白昼夢でも何でもなくて、全てが現実である事を教えてくれた。

『…今……あいつ……出てく時……耳元で…』

 記憶を辿れば、生々しく三成の声が脳裏に響いた。

「…愛してる…」

「ひっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」

 照れがそうさせるのか、は顔を茹で凧のように染め上げて、天幕の中で絶叫した。

「っ?! な、なんじゃっ?! どうしたんじゃっ?!」

 天幕の外で三成を呼び止めていた秀吉が目を丸くし、それに習うように多くの兵が視線を向ける。
傍を通りかかっていた長政が敵襲かと慌てて天幕に張りつこうとするのを、三成が押し留めた。
長政の眼前に容赦なく滑り込んだ扇の描いた軌道には一筋の迷いすらなく、寧ろ、味方であっても切り捨てんばかりの切れの良さがあった。

「身の程を弁えよ。着替えの最中だ」

「そうなんか?」

「ええ」

「では、先程の悲鳴は…?」

 秀吉と立ち止った長政に問われた三成は、しれっとした顔で言った。

「さぁ? 胸が痩せたか、逆に腹が二段に分かれてでもいたんじゃないですか? 知りませんよ」

「…全部聞こえてるわよ、ガリ痩せ反抗期!!」

 天幕の中から飛んできた湯呑みが、天幕越しに三成の後頭部に当たった。
普段なら絶対に避けるのに、わざと当たってやるあたり「何かあったんか?」と秀吉は意味深に笑う。

「…何もありませんよ」

「ほぅ〜?」

「何もありません」

「分かっとるよ?」

「何もないと言っているでしょう!!」

「ないない、うるさいな、ば…か…」

 身支度を整えて天幕の中から出てきたが叫べば、三成が己の後頭部を軽く擦りつつ振り返る。
瞬間、互いの目があった。
片や、表情や感情に乱れは一切出さず、片や、振り上げた拳の落とし所に困るとばかりに硬直する。

「ん? ん? おっ?」

 秀吉がと三成を交互に見やった。
放つ言葉は尻すぼみになり、振り上げた拳は何時の間にか胸元へ収まる。
もじもじと指を遊ばせて、顔はと言えば今にも火を噴きそうなくらいに真っ赤だ。

 そんなを見て、流石に三成にも、感情のぶれが出た。
彼は己の口元を押さえて、そっぽを向く。
緩みそうになる口元を隠してるのは明白だった。

「…先の件……お忘れなきよう……」

 ほんの少しだけ上擦った声で言って、三成は身を翻す。
は素直にこくんと頷いた。

 

 

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