天使の休息 - 慶次編

 

 

 忙しなく陣の中を歩き回るの姿を視線の端に見とめて、次の瞬間には慶次は眉を寄せた。
卵粥のお代りをよそって回る飯炊き専門の兵を呼び止め、問いかける。

「なぁ、お前さんの持ち場はずっとここかい?」

「あ、はい」

 粗相でもあったのだろうかと、不安げな眼差しで兵は身を固くする。
彼の様子から、慶次は自分の表情が想像以上に険しくなっていた事を悟った。
兵に落ち度は何もない。彼の表情が固くなっていたのには別に理由がある。
それを示すように、慶次は固くしていた表情を、努めて幾分か和らげた。
そんな慶次を見て、兵も心なしか緊張を解いたようだった。

さんは、何時もあんなかい?」

 言葉を待っていた兵に向けて、彼は再度問いかけた。
兵は安堵したからかすらすらと答えた。

「姫様ですか? そうですね、常にああして周囲に気を配っておいでです」

「そうか…何時天幕に入ったか分かるかい?」

「そういえば…あまり天幕には入られていないように御見受け致しますが…」

「飯は?」

 ズズズッ…と音を立てながら卵粥を啜れば、兵は抱えていた土鍋の中に木製のおたまを落として溜息を吐いた。
彼は心底困っているという面持ちだった。

「それがなかなか召し上がって下さらないのです」

「食ってない?」

「はい、何度か手を変え品を変え、御持ちしているのですが…食欲がないとの事で…」

 兵の言葉を聞いて、なるほどと納得した。
それであんなにも顔色が悪いのか。
気丈に振る舞ってはいるが、目線の焦点はどこかあやふや。
足取りも心持ちおぼついていないように見える。

「味が悪いのかと思い薄味、濃い目と工夫を凝らし、具も香草を始め、肉、魚とあれこれと試してはいるのですが…」

「なるほどな、だから今日の粥は卵か」

「はい」

「味噌を使ったおじや等も作ってみたのですが、それもお気に召さないようでした。
 食が細くなられてからかなり日も経ちますので出来るだけ臓腑に優しい物を…と試行錯誤しております。
 とはいえ何分戦場です、食材にも限りがございまして…」

「…だろうな……」

 この時代、玉子一つとっても貴重品だ。
そのような高級品を戦地で粥に溶き崩して振舞うなど、例え本陣の中であったとしてもそうそうあるものではない。
言ってみれば大盤振る舞いもいいところだ。
後先考えていないようにも思えるこの行動は、本来ならば軍法会議ものだ。
だが炊飯を一手に任される兵達にしてみれば、国の根幹ともなる主の食に陰りが見えているとなれば、そうも言っていられないのだろう。現に慶次の問いに答えていた兵は、次の献立を考えているのか、ぶつぶつと呟き始める。

「……もしかして、姫様は汁に溶いた物が苦手なのだろうか…握り飯や炊き込みご飯の方が良いだろうか…?」

「色々聞かせてくれて有り難うよ」

「あ、はい」

 兵は慶次の椀にもう一杯だけ卵粥をよそって、その場を離れた。
慶次は手に残った椀の中の粥を一気に掻き込むと、椀と箸を洗い物を入れる事になっている盥に放り込んだ。
それからすぐに立ち上がり、陣の中を歩き回っているの元へと歩みを進めた。

さん」

「慶次さん、お疲れ様です」

 家最大の武力を持つだけに、常に最前線を任される彼の無事を自分の目で確かめられて安堵したのか、は柔らかい微笑みを見せた。

『…限界は、とっくに振り切ってんだな…』

 柔らかい微笑みではあっても、顔色は悪く、明らかに窶れつつある。
無理をしているのが一目瞭然だ。
だが当のには、その自覚がないのだろう。
自分に出来る事を探して、陣の中を徘徊しては雑事に身を傾けているようだ。
 勤勉な事は悪いことではないが、時と場合による。
血で血を洗うと称される場所にあって、このような体調が続いていることが、好ましいはずがない。
無自覚のにそれを気が付かせ、休ませなくてはならない。

さん、ちょっといいかい?」

「何? どうしたの?」

 真剣な眼差しで言えば、はすぐに顔を強張らせた。
その瞬間、の瞳に浮かんだのは、戦に勝てるかどうかという不安。
己の命を脅かされていることからくる恐怖。
命を取り合う事への嫌悪と悲しみ。
一度に抱え込むには、あまりにも大きく、重すぎる負の感情だ。

「ここじゃ、ちょっとな…」

「あ、うん。分かった。なら天幕に…」

「俺ンとこにしてくれるかい? その方が色々都合がいい」

「分かった。行こう」

 身を翻そうとしたを、慶次は自分の天幕へと促した。
素直に意見をのんで歩き出したの後を、慶次はついて行く。
 用の天幕から数十歩の距離にある慶次の天幕の前へと来ると、後方を歩いていた慶次がの前に出て、出入り口となる幕を片手で持ち上げた。

「ありがとう」

「いや」

 陣の中であれば、多くの者の視線もある。
家臣としては当然の行動だと、慶次は視線で答える。
戦場であればこそ、城の中でのようなざっくばらんな関係は、慎まねばならない。
でなければ軍としての統制に影が射す。
 本来ならば、こうして自分の天幕に招き入れることすら問題だ。
何せは女、慶次は男だ。何か間違いがあったら、それこそ統制どころの話ではなくなってしまう。
慶次に限ってに対して牙を剥くという事はあり得ないだろうとも思う。
だが時は乱世、ここは戦場。ともすれば、その可能性を絶対に起こりえないものとは、誰にも断言する事は出来ない。
 現に慶次の天幕に入って行くの後ろ姿を見た数名の兵は、念の為とばかりに戦略会議を繰り返す秀吉達の詰める天幕へとこの事を報告に走った。

「で、どうしたの??」

 まだ日は高いからか、外から差し込む光に照らされて、幕舎の中は暖色の色合いに満ちている。
慶次用の天幕であれば、通常の天幕よりもずっと大きいそこは、持ち主の趣味を多大に反映していた。
どの天幕にも同じように誂えられている簡素な寝床の上に敷かれているのは虎皮。
夜着となる紅蓮の装束には、金糸の華やかな文様が踊り、一目で誰の天幕なのかが分かるようになっている。

『…こういう場所では、誰の天幕かすぐに分かっちゃいけないんじゃないのかな??』

 漠然と考えるの事を振り向かせ、慶次はゆっくりと口を開いた。

さん」

「はい?」

「…さん」

「……は…い…? え、何?」

 何かを言うわけでもなく、ただじぃっと見下ろして、名だけを呼ばれる違和感。
それに戸惑い、瞬きを繰り返す
の困惑を察していながら慶次は多くを語ろうとはせず、ただ、名を呼び続けた。

さん」

 やがては返事をすることを止めた。
代わりに彼の仕草、眼差しを観察し、言わんとしている事を悟ったように小さく頷いた。
所在なさげに周囲に視線を走らせ、慶次の寝床に気が付いて、そこに腰を下ろす。

「…ごめんなさい、心配…かけてるね」

「ああ、すごくすごく、心配だよ」

 眼差しで語った慶次が、の隣に腰を下ろした。大きくいかつい掌を伸ばしての頬を撫でて、そのまま後頭部へと回せば、導かれるようにが慶次の胸板に自分の額を預けた。

「…寝てないだろ?」

 最初は困ったような声で、

「寝てないよな?」

 次は心持ち低い声で心配そうに問いかければ、は小さく頷いた。

「飯も食ってないな?」

「……うん…」

「どうしてだい?」

 言い難いのか、視線を伏せるに、慶次は柔らかく問う。

「理由を聞かせちゃくれないか? 何、俺は天下御免の傾奇者だ。
 他の奴と違って、そう簡単にはさんを責めやしないぜ?」

 緩んだ腕の中で顔を上げればすぐに慶次と視線が重なり合った。
真摯な眼差しを向ける慶次と視線を合わせたは、観念したように一度だけ溜息を吐いた。
己の両手を動かし、胸元へと持ってきて組めば、視線も自然と下へ下へと落ちていった。
忙しなく指先を動かしながら話す仕草は、まるで叱られるのを恐れる子供の仕草そのものだ。

「……食べたくないわけじゃないの…でも…ね…その…臭いが…キツ過ぎて…喉を通らない…」

「臭い?」

 問いかければは一つ、頷いた。
言いたくても言えなかったのだろうか。
たどたどしく紡がれていた理由は、次第にせせらぎが大河となるように淀みを失った。

「その……私の時代には……というか、私が暮らしていた国では……こういう戦とかって、今はもうなくて…。
 だからこういうね、人が人を殺す事によって出る臭い……血とか、腐敗臭とか…そういうの…私は今の今まで、
 全然知らないで生きてきた。そりゃ、女だからね。こんな年だし…血の匂いくらいは知ってるんだけれど…。
 でも、こんなに強い……凄い量の血の匂いなんて、嗅いだ事がない…」

 包容力溢れる慶次だからこそ、女性ならではの悩み、痛み、苦しみを聞き出せたのかもしれない。
現に慶次はが抱える悩みについて咎めるようなことはなかった。
寧ろ聞き出してみて、初めて納得したと言わんばかりの同情的な声をあげた。

「…そうか…そりゃ、息苦しいねぇ」 

「…うん…苦しい……それにね…戦場だから当然なんだけど………どこを見ても…」

「どこを見ても?」

「…生々しい惨状ばかり…」

 最前線を預かる慶次に対して、失礼なことを言ってはいないか推し量るように、は言葉を模索する。
その様こそがもどかしいのか、慶次は掌を伸ばしての肩を撫でつけた。暗に大丈夫だと示したのだ。

「いいんだぜ、全部吐き出して。言ってみな? まだあるだろ?」

 促されたは小さく頷いて、唇を開いた。
慶次は黙っての口から発せられる言葉一つ一つに耳を傾ける。

「…いけないって分かってるの…。こんなこと思うのはいけない。贅沢な話だって。
 でも、匂いとか、映像とか、とにかく生々しくて気持ち悪くて…食べろって言われても…喉を通らない。
 私のいた世界では、私がしていた生活の中には……今までは、こんな酷い匂いとか、こんなに強烈で怖い映像とか
 なかったし……私にはこれから先もずっとずっと、関係ない事なんだと思っていた…」

 感極まって来たのだろう。ぽろぽろと頬を伝い始めた涙を、慶次が指先で拭ってやれば、は懸命に訴えた。

「分かってるの。多くの人の死は、受けた傷は何の為か。誰の為なのか、って。
 でもね、生理的に…慣れられない…。食べなきゃ、って思っても、手が動かない。
 せめて眠らなきゃ…って思うけど、不安で、怖くて…。目を閉じれば、すぐに死んだ人の顔とか、姿とか…
 すぐに思い出して……申し訳ないやら、怖いやら……頭の中、どんどんぐちゃぐちゃになっちゃって……
 全然、眠れなくて……」

 己の体を掻き抱いて、すんすんと鼻を鳴らしながらは訴えた。

「…天幕に……一人で居る事も……段々怖くなってきて……」

「それで、寝ないし食わなかったんだね?」

 大きな掌で額を撫でられて、はこくこくと頷き続けた。

「どうして言ってくれなかったんだい?」

「…だって、皆…それどろこじゃないでしょ? 命がけで戦ってくれてるのに…私の我が儘なんか…」

さん」

 ぎしりと床板が軋んだ。
慶次が再びとの距離を詰めたのだ。
がびくりと肩を震わせて、おずおずと慶次を見上げた。
咎められる事を恐れたのだろう。
 だが慶次は咎め様な事はなく、の頬に無意識に伝った涙を拭い言った。

「そりゃ我が儘じゃないぜ。女であれば、当然の苦しみだ。
 元より、戦場は女の来るところじゃない。女ってのは、繊細な生き物だからね。戦を嫌って当然だよ」

「でも、でも…」

 自分に厳しすぎるの抱えた重責を取り去ろうとでもいうのだろうか。
慶次はを抱き寄せて、彼女の華奢で小さな背を厳つい掌で優しく何度となく撫でた。

「いいかい、さん。俺達は女を君主と仰いじまった。
 ってことは、さんが言う我が儘もしっかり呑み込んで、その上で戦ってかなきゃならないんだ。
 さんが遠慮して強がることや、耐えることなんか、しなくていいんだよ」

「…でも…だって…」

 必死に泣き声を殺して話すの弁を彼は退ける。
精神的に参っているのに、これ以上抱え込ませてなるものかと、彼の横顔は語っていた。

さんは、本当に偉いねぇ。何時も驚かされるぜ」

「偉い? 私が? 何も出来ないのに…?」

 慶次の言葉に驚いて瞬きすれば、慶次はの額に己の額を重ねた。

「ああ、そうさ。何時もそうだ。こうやって限界まで色んな事を腹ん中に溜め込んで、一人で戦ってる。
 さんがやってる戦いには、策略も武も関係ない。頼みになるのは己の精神力だけだ。
 そんな戦いを人目を忍んで続けてる。こんなのはなかなか続けられるもんじゃないぜ?」

 ニカっと笑って見せれば、はほんの少し嬉しそうに破顔した。
けれどもそれは甘えではないのかと、すぐに表情を引き締めて首を横へと振った。
 日に日に増えて行く死者数、負傷者数の報告が、彼女から弱音を吐くという逃げ道を取り上げてしまったのだろう。

 

 

- 目次 -