「慶次さん…お願い…今、私の事甘やかさないで…褒めたりしないで…」
「どうしてだい?」
「私、最低だよ。皆が命がけで戦ってるのに、慣れられないとか、匂いがきついとか泣き言ばかり口にして。
武器を手にして戦場で戦ってくれてるのは、皆の方。私はここで皆に守られて、怪我ひとつしていない。
出される食事だって、戦う皆の方が稗や粟で水増ししたお粥なのに、私だけ漬物までついた卵粥。
天幕だってそう。こんな固い大地で、野宿同然の人がいるのに、私は違う。不自由しないようにって、
色々気を使ってもらってる。甘やかされてる。
…なのに、ダメだっていう。寝られないとか、食べれないとか……すごく我が儘よ」
自虐的な言葉を受け入れるつもりはないのだろう。
慶次は首を横にふり、に言い聞かせるように言葉を紡いだ。
彼女が作り上げた固定観念をなんとしても壊す必要があった。
「でもな、さん。普通なら、姫は戦場には来ないもんだ。
それを押して来る。本当はこんなとこ来たくもないはずなのにな。
自分がいれば士気が上がると、ただそれだけの理由で、無理を押してやって来てる。
…それがどれだけ兵にとって嬉しいことか、分かるかい?」
は瞬きをしながら、ゆっくりと首を横へと振った。
慶次へと向けられる視線は、自信を失って、か弱く揺れるばかりだ。
慶次は目を細めて、愛しそうにを見下ろした。
「さんの行動は、戦ってる俺らにしたら嬉しいもんばかりだよ。
凡そ、君主なんてのは、痛みを分かち合おうとはしないものさ。
安全な場所で、見たくないものは見ないままで、戦をする。
何時も凄惨な現実を感じるのは、その場に身を置く将兵だ」
背を撫でていた手が一度離れて、仰々しく広げられた。
周りを見てみろと言わんばかりに動いた手はやがての前で止まって、の胸を指し示した。
「だがあんたは違う。自分でも懸命に背負おうとする。
こんな小さな体で、痛みを抱え込んで、辛いのに必死で我慢してる。
その高潔さに、皆々、心打たれてる」
「…慶次さん…」
「俺達はさんのその思いだけで充分なんだ。だからな、無理してこれ以上は堪えなくてもいいんだぜ」
突き出された慶次の大きな手をとり、は額を押し付けて荒々しく息を吐いた。
「慶次さん…お願いだから、甘やかさないで…。
例え、これが褒められるような我慢だとしても…死んでいく人の命と天秤に掛けたら、どれ程の重さになると思う?
誇れるような重みにもならない……人の命は、それ程重い…」
紡がれた言葉の中に小さな嗚咽が見え隠れする。
慶次はもう一方の掌での頭を撫でて、小さく溜息を吐いた。
「分かった、分かったよ。なら、こうしよう。
さんはこの天幕にいる間は、何もかも、隠さずに吐き出す」
「でも、でも…」
「いいかい、さん。あんたは国の象徴だ。それが心的な負担抱えて倒れでもしたら、どうするね?
ここは城じゃない、戦場だ。そんな事になったら敵の思う壺さ。
我慢するのも時によりけり。溜めこむ事は、決して美徳じゃないんだよ。
ほら、吐き出すだけ吐き出しな。俺なら平気だぜ」
再び大きな掌で包み込まれ、背中を優しく撫でつけられる。
慶次の懐の深さに触れ、「大丈夫だ」と促され続ければ、張りつめていた自制心はぐらりと揺れた。
言いたい、言えない。
聞いてほしい、話してはならない。
相反する感情がせめぎ合い、を苦しめる。
その思考の渦から救い出さんと慶次はの耳に唇を寄せた。
「それとも、俺はそんなに狭量な男に見えてるかい?」
「え…」
驚いて顔を上げれば、彼は真剣に問いかけていた。
「俺はあんたの、の護人だ。
護人が護るのは、命だけじゃない。俺は、の心も護る。
何時もそのつもりで、さんの傍にいる。その為だけにこの風来坊は家に居座ってる。
その意味を、信じちゃもらえないのかねぇ? だとしたら、それはそれで寂しい話なんだけどねぇ」
「…慶次…さん…」
が瞼を閉じて小さく息を吸う。
と、同時に、慶次の顔が近付き、の額に唇が重なった。
驚いて振り払うような精神的な余裕は、にはなかった。
なすがまま彼の軽い口付けを傍受する。
額、頬、鼻先、そして最後に唇。
「聞いて…くれる?」
甘く優しい口付けは、の心を縛る目に見えぬ鎖を粉々に砕いた。
「ああ。聞かせてくれ。俺はさんの声が聞きたい。思いを知りたい」
繰り返される口付けに酔いしれ、縋るようにの華奢な掌が慶次へと延びる。
答えるように慶次は一層距離を詰めて、床の上へとを横たえた。
しっかりと腰を抱き、額を撫でながら口付け、先を促す。
「怖いの。すごく」
「だろうな」
「気持ち悪い。あちこちで血の臭いとか、腐敗臭とか漂ってて…」
「堪んないよな」
「ご飯食べろなんて言われても、無理」
「そうだよな」
「何よりも……私に良くしてくれる皆が、私の為に、傷ついて、死んでしまう事が、嫌なの…」
はたどたどしいながらも胸に溜め込んでいた感情を漏らし続けた。
「…さん」
「…だって、私、その人に何もしてあげられない。なのに、その人、私の為に死んでしまう…。
護れるものなら護りたいと思う。けれど私には自分の身一つ護る術がなくて…その人の負った傷に、
私が報いれることなんか何にもないんじゃないかって、そう思うと、堪んなくて…」
「…辛いな、苦しかったな…」
「慶次さん、怖いよ、苦しいよ…苦しいよ…」
漏れた声は、次第に強い力を帯びて悲鳴にも近い哀願になった。
「…こんな戦なんて、早くなくなればいいのに…!!」
わぁわぁと声を上げて泣くの声は、当然、天幕の外まで漏れていた。
一報を聞いて様子を見にきた将だけでなく、兵にまでの嘆きは聞こえていたのだ。
「…姫…」
「…様…」
一刻の間、の嘆きは続いた。
次第に天幕の中が静かになって行く。それに気を揉んでいる者は多い。
堪らなくなったのか、天幕の外でうろついていた左近が、出入り口の幕に手をかけた。
「慶次さん、ちょいと失礼しますよ」
「ん?」
横になっていた慶次が視線だけを巡らす。
差し込んだ光から庇うように、慶次はを抱き抱えて横になっている。
「なっ!! あ、あんたっ!! 何して…!!」
やっぱりただ慰めてるだけではなかったかと、左近が激高し怒鳴り散らそうとする。
それを慶次は指先を口元に持ってくる動きだけで留めた。
「ん?」
慶次の視線の動きを追い、左近が視線を巡らせる。
動向が気になるらしい将兵がこぞって天幕の中を覗き込む。
すると慶次は、それら多くの視線をものともせずに、腕の中のの事を指し示した。
慶次の大きな体の中にすっぽりと身を預けて横たわるは、泣き疲れたのかすやすやと寝息を湛えていた。
「…姫…」
「ようやく寝たんだ、起しなさんな」
慶次が言い、左近に出て行けと暗に視線で言う。
「…しかし…」
「俺だって、分別くらいある。こんな色気も味気もないとこで、妙な真似しやしないさ。
やるなら城に戻ってから本気でする」
「なっ!」
どこまで冗談なのかが怪しい発言をした慶次に、左近が食ってかかろうとする。
すると一連の会話を見守っていた秀吉と数多の将兵が左近を羽交い絞めにした。
彼らは極力物音を立てぬようにと気を使いながら、左近を天幕から引き剥がす。
「気遣いありがとよ。さてと…こうしてても暇だね。俺も一寝入りさせてもらうとするか」
大きな欠伸を一つ洩らした慶次は、改めての事を抱きかかえると上掛け布団の代わりに支給されている外套を手繰り寄せて引っ被った。
「大殿、勘弁して下さいよ!! 二人きりって、いくらなんでも不味いでしょうが!!」
「左近、ちったぁ冷静になれ。様は今寝とるんじゃぞ。妙な事すりゃ一発で起きるわ」
「でも安全という保証はどこにもないでしょうが!!」
「よう考えてみ、んな事して肝心の時に力が揮えんようじゃ本末転倒じゃろ。大丈夫じゃって」
外で騒ぎまくる左近と秀吉の声を聞きながら、慶次は口の端を吊り上げて笑った。
彼の腕の中に収まり眠るの首筋にはくっきりと一つの欝血痕が浮かぶ。
これはが眠りに落ちる寸前に慶次が抱き抱えて彼女を愛でながらつけたものだ。
溢れる涙を唇で拭ってやり、最終的にはどさくさに紛れて濃厚な口付けを唇を交わし、最後に首筋を吸った。
泣き疲れて夢心地になりつつあったにその記憶が残っているかどうかは定かではない。
だとしても慶次は満足だった。
『戦場において、この俺の腕の中でしか安心して眠れないとは……こりゃまた嬉しい話だねぇ』
睡眠不足であれば自分の温もりで補えると知った慶次の機嫌は、それから数日間、損なわれる事はなかった。
理由は勿論、寝ぼけ眼のが癒しを求めて度々慶次の所へと転がり込んで来たからである。
戦が終わって、数日。
城の中に奇妙な噂が広がり始めた。
夜半になると中庭で何者かの気配がしているというのだ。
それは先の戦でいい人を亡くした女性の亡霊で、寂しさに耐えかねて現世に彷徨い戻ったのではないか。
あの世への旅路の供を探し求めているのではないか、と噂されていた。
警備に当たる者達も、自分達が見回れる範囲で聞く噂であれば気を揉みはしない。
小隊を組んで確認に行くことなど造作もないのだから。
だが問題は、その噂の元凶となる気配が、ある夜から自分達の手の届く範囲を超えた場所で蠢くようになったからだ。
それ即ち、君主であるの私邸階。
日中であればよいが、夜ともなれば話は違ってくる。
国の君主、は未婚の女性なのだ。
夜ともなれば、警備につくのは服部半蔵管轄下のくのいち衆だ。
噂は気がかりではあるが、実態がない噂である。
前田慶次を始めとした重鎮集ならまだしも、一介の警備衆が、おいそれと寝入っている女子の私邸階へ足を踏み入れるわけにはゆかなかった。
その夜、夜警に当たっていた慶次は、初めて部下達からその話を聞かされた。
の性質を誰より知りつくしている慶次には、その噂を放置することは出来なかった。
『まさかとは思うが……さんのことだしねぇ…』
慶次は見回りの合間を見計らい、私邸階の中庭へと足を運ぶことにした。
戦を終えた直後にこうした話が出るのは珍しいことではない。
だが問題は、この話が根拠のない作り話ではなかった場合、この城の中において、ただ一人だけ、その霊に同情し、同調してしまうであろう人間がいることだ。
抱えた予感が無用の長物であってほしいと願いながら、歩みを進めれば件の中庭から気配が漏れてくる。
『やれやれ…困ったもんだねぇ…想像通りかい…』
時刻は丑三つ。
人気があろうはずもない中庭に、微弱な光が灯っている。
その強さから見て、誰かがそこで蝋燭に火を入れているとも考え難い。
となると益々例の噂が信憑性を帯びてくる。
慶次は歩みを進め、中庭へ隣り合わせの廓に立った。
夜の静寂に耳を済ませれば、確かに壁の向こう側から何者かの嘆きが聞こえて来た。
「………っく…ひっく……うっく…どこに……どこにおいでなのですか……うぅ…ひっく…ううぅ…」
本来であれば女子の嘆く姿を覗き見るような無粋な趣味はない。
だが声色に覚えがあれば、話は別だ。
彼は大きな体躯に物言わせるように、壁に手をかけた。
腕力に物を言わせて壁をひらりと乗り越えると中庭に降り立つ。
「!」
不意の来客に驚いたようで、泣いていた女子はぴたりと泣き止んで顔を上げた。
亡霊と呼ばれた女と真正面から向かい合う。
嘆く女の顔は涙に濡れて、艶やかな黒髪が頬にへばりついていた。
「悪いね、驚かせちまったか?」
「お武家様……お目汚しを…お許し下さい…」
女は低い声で詫び、再び己の世界へと逃避しようとする。
慶次はそれでは困るとばかりに一歩前へと踏み込んだ。
「女子殿、あんたの気持ちも分からないでもない。が…戦に死はつきものさ。
思い通りにゆかないからといって、その人にとり憑かれちゃ、俺らも困る。
勘弁してやってはくれないかねぇ?」
慶次の言葉を聞いた女子は、拒むように小さく首を横へと振った。
「……この方だけなのです…あたいの悲しみを…聞いてくれたのは……耳を傾けてくれたのは……」
「だろうね。先の戦を割り切れず、その人もずっとずっと嘆いていた。
あんたの嘆きを無視することなど出来ない不器用なお人さ。
きっと、その人の嘆きは、あんたの嘆きより、遥かに重い」
慶次の言葉を聞いた女の横顔に剣が差す。
「あたいの無念より、この女の痛みの方が重いと言われるのか!?」
凄む女に対して慶次は怯むことなく頷いて見せた。
「ああ。そうだ」
「そんなはずない! あたいより苦しいはずがない!! だってこの娘は、この国の姫じゃないか!!
皆に愛され、皆に支えられ、皆に護られる!!! あたいのいい人は、この女の為に死んだんだ!!
なのに、この女の方が、戦であの人を亡くしたあたいより辛いというのかっ!? そんなはずがない!!」
「愛する人を亡くすのは、誰でも辛い。だがな、女子殿。
あんたが憑いたその女はね、あんたのいい人が戦った戦場にずっとずっと居たんだよ。
あんたらがこの町の中で、命を取られる事がないように、自ら命を張っていたんだよ」
慶次の言葉を受けて、女子の顔が驚愕に染まる。
「後方都市に逃げるわけでもなく、領地を餌に逃げ伸びることも考えない。
針片手に人の中を歩き回って、負傷した兵を治療して歩いてた。
己の嘆きが、弱音が、皆の心を嬲る鞭となると、辛くても、苦しくても、決して弱音は言わなかった」
「そんなはずない!! そんなことがあるはずが…!!」
「あるんだよ。我慢の限界をとおに振り切って、どうにかなっちまいそうな寸前のところで、俺がそれを止めさせた。
腹の中に溜まった痛みを吐かせた」
「!」
「それまでその人は、決して弱音は吐かなかった。
自分の国の為に戦う一人一人の為に出来ることを模索し、足掻いて、足掻き続けて…人が死んだ時にだけ泣いた。
命の危機に瀕していながら、自分のことでは決して泣きはしなかった」
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