鬼軍師の涙 - 左近編 |
「老兵、負傷兵を優先的に先陣に置きましょう」 が目を見開いて顔を上げれば、彼は冗談ではなく、本心からそう進言していた。 「二度と……二度と、そんな事…言わないで…お願い…」 「…姫…」 「左近さんの口から、そんな悲しいこと…聞きたくない!」 は肩を落として、声を殺しながら泣く。 「様、戦はそういうものにござる。左近殿を責めてはなりませぬ」 懸命に取り成そうとする家康の言葉に小さく頭を振る。 「…分かってる…でも……でも…皆、まだ生きてる…」 「姫の気持ちも分かります、だがこっちももうギリギリなんですよ。このままじゃ、戦線が瓦解する」 苦渋の決断を迫られたは、腹の底から声を絞り出した。 「…火を…用意して…」 「え?」 「…こういう場合、疫病は人の死体から発生するの…」 左近と家康が視線を交わす中、は苦しげに言った。 「…だから…死体を焼けば……当面は抑えられるはず…だから…だから、今は…それで…なんとか…」 「…分かりました、左近が行きましょう」 この場を凌ぐのに最良となる策を延べ、直後に手痛い却下を食らった左近は、後にした天幕の外で一度小さく溜息を吐いた。下げていた拳に、自ずと力が籠る。 『分かっていたはずだ……姫には、出来ない……』 「そうさな……だから、俺が選ばれた…」 独白した左近は、一度瞬きをすると誰もが底冷えするような眼差しを湛えて陣中を歩いた。 「そこのお前、後お前もだ。火の用意をしろ。外の屍を火葬する」 簡潔に、陣の外に渦高く積み上がった両軍の屍の始末について述べる。 「左近様?」 入って来た左近の顔に、見た事もない冷徹な光を見た兵達は、固唾を呑んだ。 「あんたら、まだ動けますかね?」 目を失った者。 「さ、左近様…? 今、何と…?!」 我が耳を疑うと言わんばかりの声色で、天幕の責任者が進み出れば、彼を左近は視線だけで退けた。 「…劣勢なんですよ。先の見えぬ戦いだ。見込みのない者の為に、使える物資はない」 「お待ち下さい!!! そ、それは姫様のお考えで…!!」 薬師が金切り声を上げて否を唱える。 「いいや? これは俺の独断だ。だがそれが何か問題でもあるのか? 「左近様?! 一体どうされたのですか?!」 「どうもしませんよ。ただ俺は現実的な話をしてるだけだ。 「……彼らに死ねと…そう仰るのですか?」 「ああ、そうだ。その覚悟で兵になったんだろう?」 息を殺す負傷兵を見渡し、左近は言う。
「お前らを助けて姫が手討ちにされて国を失うか、お前らが先陣で死兵となり、この戦に光明が射すまで 怒りと悲しみでぶるぶると震えだした薬師に左近は視線すら合わせない。 「…自分の頭でよく考えろ。今、一番お前らに何が求められているのかを…。 迷いあぐねる負傷兵の中から、ごほごほと咳が上がった。
「…ここで、今、俺が全員殺してもいいんだぜ? だがそれじゃあんたらも立つ瀬がないだろう? 薬師が腰を抜かし、看護兵が硬直する。 「さ、左近殿!! かような悪行は、姫様はお赦しになりませんぞ!!」 「だろうね。実際、さっき平手打ちされましたよ」 左近は薄く嗤う。 「で、では…これは……越権行為では…?」 「ら、乱心されたのですかッ?!」
「ええ。越権ですよ。さっきもそう言ったでしょう? でもね、これが今必要なんですよ。にはね。 左近は振り下ろした刀身を軽く振り、こびりついた血を振り落とす。 「いいかい、先生。俺は、の軍師だ。 「……さ、左近……さ…ま……」 床に横たわっていた兵の一人が、苦しげに声を発する。 「俺らが……死ねば……は…救えるのか?」 「ああ。少なくとも、負担は少なくなるね」 「そうかぁ……なら、仕方ねぇなァ……」
医師、薬師、看護兵が目を見張り、息を呑む中、声を上げた兵はよろよろと立ち上がる。 「…負けちまったら……国にいるおっかぁと俺の子……どうなるか分かんねえもんなァ……」 彼の顔を隠していた兜が転がって落ちた。 「…甚六さん……あんた……どうしてここに?」 兵の独白を聞いた左近の顔に初めて、感情のぶれが現れた。 「へへ…おかしい…かい? 八百屋の俺が…志願してたのが…? 甚六は辛うじて立っている他の兵の体を支えにしながら移動し、天幕の隅に集められた具足へと手を伸ばした。 「毛利の天下じゃ……きっとおっかあも俺の子供も…大事にはされねぇ…。 「そうだろう?」と視線で問われた左近は、静かに一度頷いた。 「なら、仕方ねぇよなぁ……軍師さんの考えた一番の策が……これなら……したがわねぇとなァ…」 「…すいませんね…」 低い声で左近が言う。 「左近様、このような真似は…!!」
最後まで否を唱えようとしていた薬師の前を、また一人、また一人と負傷兵が通り過ぎて行く。 「左近様!! このような非道、決して許されるものでは…」
「知ってますよ。これは俺の独断だ。許されるつもりも毛頭ない。全ての咎は、俺が一人で背負う。 淡々と受け答えした左近は、身を翻して天幕を後にした。
その日の夜。 『ああ……そうかぁ……泣いてくれるんだなぁ…。
階級制度の根強いこの時代、目上の者が目下の者を労わる事は皆無に等しい。 「いい女だろう?」 死兵隊の中腹を進む甚六がこそばゆいとばかりに笑った。 「俺は、あのお方が……最初に収めた…土地にいた者(もん)で…ね。 「姫さんが…大根を食うのか?」 「ああ……漬物にすると…美味いってな…良く笑ってたな…」 槍を杖代わりに歩き、思い返すように甚六は笑う。 「そうなんじゃな…儂は徳川領で…姫さんの温情を受けたぞ…」 どこからともなく、声が上がった。 「わしは北条の者(もん)だ…あの嵐の時は…ほんに驚いたのぅ…」 よろよろと進む一団は、思い出話に湧きながら、それを糧に前へと進み続けた。 「慶次様!!! 増援が…!!」 「あ?」
聞いていないと、怪訝な顔をした慶次の元へとやって来た兵は、慶次と同じように困惑を顔に貼り付けている。 「…おいおい、こいつらはもしかして…」 「…はい、死兵です…」 の戦ではそんな戦法はあり得ないと、兵は声を殺す。 「誰の命でもないんじゃ…」 「…儂らが自分で…自分の意思で、来ましたじゃ」 「………そうかい………」 慶次が奥歯を噛み締めて、本陣へと視線を移す。 「…左近……形振り構っちゃいないね……」
左近の考えを瞬時に理解し、戦況を理解し、これしか他に方法はないと、湧き起る数多の感情を呑みこむ。 「聞きな!!!」 慶次の声に、彼の元に集った兵士が耳を欹てて意識を集中する。 「ここは地獄だ!!! 悪鬼さえもが避けて通る地獄の釜の底だ!! その通りだと、兵は小さく相槌を打つ。
「……お前さんらの命の最後の一花、この前田慶次が最後まで見届けやる!!!! 慶次が天高く鉾を掲げれば、松風が嘶いた。
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