鬼軍師の涙 - 左近編

 

 

「老兵、負傷兵を優先的に先陣に置きましょう」

 が目を見開いて顔を上げれば、彼は冗談ではなく、本心からそう進言していた。
バシン!! と、大きな音が鳴って、左近が顔を伏せる。
ぶるぶると震える掌で彼の頬を打ったは、大粒の涙を零しながら言った。

「二度と……二度と、そんな事…言わないで…お願い…」

「…姫…」

「左近さんの口から、そんな悲しいこと…聞きたくない!」

 は肩を落として、声を殺しながら泣く。

様、戦はそういうものにござる。左近殿を責めてはなりませぬ」

 懸命に取り成そうとする家康の言葉に小さく頭を振る。

「…分かってる…でも……でも…皆、まだ生きてる…」

「姫の気持ちも分かります、だがこっちももうギリギリなんですよ。このままじゃ、戦線が瓦解する」

 苦渋の決断を迫られたは、腹の底から声を絞り出した。

「…火を…用意して…」

「え?」

「…こういう場合、疫病は人の死体から発生するの…」

 左近と家康が視線を交わす中、は苦しげに言った。

「…だから…死体を焼けば……当面は抑えられるはず…だから…だから、今は…それで…なんとか…」

「…分かりました、左近が行きましょう」

 この場を凌ぐのに最良となる策を延べ、直後に手痛い却下を食らった左近は、後にした天幕の外で一度小さく溜息を吐いた。下げていた拳に、自ずと力が籠る。

『分かっていたはずだ……姫には、出来ない……』

「そうさな……だから、俺が選ばれた…」

 独白した左近は、一度瞬きをすると誰もが底冷えするような眼差しを湛えて陣中を歩いた。

「そこのお前、後お前もだ。火の用意をしろ。外の屍を火葬する」

 簡潔に、陣の外に渦高く積み上がった両軍の屍の始末について述べる。
左近に命じられた兵はすぐさま準備にかかる為に、火器を封入している天幕へと向かって走った。
彼らの動きを確認した左近は、身を翻し、負傷者が詰める陣へと足を向ける。
 そこには年齢・出自・性別で分け隔てることなく、負傷者が詰め込まれていた。
この場で横たわる人々を分類する方法があるとすれば、それはが苦渋を呑んで口にしたトリアージだけだ。

「左近様?」

 入って来た左近の顔に、見た事もない冷徹な光を見た兵達は、固唾を呑んだ。

「あんたら、まだ動けますかね?」

 目を失った者。
足を引きずる者。
吐血する者。
起き上がることすらできない者と、様々な症状を見せる兵に向い、左近は問いかけた。
 治療に当たっていた医師、薬師、看護兵が顔面蒼白になり、動きを止めた。

「さ、左近様…? 今、何と…?!」

 我が耳を疑うと言わんばかりの声色で、天幕の責任者が進み出れば、彼を左近は視線だけで退けた。

「…劣勢なんですよ。先の見えぬ戦いだ。見込みのない者の為に、使える物資はない」

「お待ち下さい!!! そ、それは姫様のお考えで…!!」

 薬師が金切り声を上げて否を唱える。
すると左近は、薬師に視線を合せて逆に問いかけた。

「いいや? これは俺の独断だ。だがそれが何か問題でもあるのか?
 俺は軍師で、この戦を預かってる。その俺が、必要と思った事を命じてるだけだ」

「左近様?! 一体どうされたのですか?!」

「どうもしませんよ。ただ俺は現実的な話をしてるだけだ。
 俺達は、の為に戦っている。それは何の為だ? 姫の治世を護る為だろう?!
 災害直後のこの長期戦で、当然物資は少ない。不利どころの騒ぎじゃない。
 慶次さんを筆頭に兵の質こそ上だが、長期戦で最後にものを言うのは物量だ。
 その資源を、ここであんたらに使うくらいなら、他の奴の為に温存した方が物資も時間も有意義だと、
 俺はそう言ってんだ」

「……彼らに死ねと…そう仰るのですか?」

「ああ、そうだ。その覚悟で兵になったんだろう?」

 息を殺す負傷兵を見渡し、左近は言う。

「お前らを助けて姫が手討ちにされて国を失うか、お前らが先陣で死兵となり、この戦に光明が射すまで
 粘るのとでは、どちらが有意義だ?」

 怒りと悲しみでぶるぶると震えだした薬師に左近は視線すら合わせない。

「…自分の頭でよく考えろ。今、一番お前らに何が求められているのかを…。
 お前らに使う薬、兵糧だって無限じゃない。
 何時死ぬかも知れぬお前らを庇護し、五体満足な者が不利益を被るのか?

 それで誰を護れる? そんな綺麗事ばかり掲げていても、敵さんは帰っちゃくれない」

 迷いあぐねる負傷兵の中から、ごほごほと咳が上がった。
死期が近いのか、柱に背を預けて咳をしている老兵の顔色は蒼白だった。
赤黒く変色した包帯に上半身を包んでいる。
彼の前まで来た左近は、人々が見守る中で彼を抱き起すと、何も言わずに猛壬那刀を抜き放った。
彼が振り下ろした刃が老兵の急所を捕らえた。
叫び声一つ上がらぬ、一瞬の出来事だった。
左近の顔には老兵を切り捨てた時の返り血がこびりつく。
それを拭いとることもなく、左近は全員を見渡す。

「…ここで、今、俺が全員殺してもいいんだぜ? だがそれじゃあんたらも立つ瀬がないだろう?
 だから最後の奉公を……死に場所を俺が作ってやるって言ってるんだ」

 薬師が腰を抜かし、看護兵が硬直する。
辛うじて医師だけが蔓延る緊張感に呑まれず、懸命に訴えた。

「さ、左近殿!! かような悪行は、姫様はお赦しになりませんぞ!!」

「だろうね。実際、さっき平手打ちされましたよ」

 左近は薄く嗤う。

「で、では…これは……越権行為では…?」

「ら、乱心されたのですかッ?!」

「ええ。越権ですよ。さっきもそう言ったでしょう? でもね、これが今必要なんですよ。にはね。
 乱心していられたらどんなにかいいかね。だが生憎、俺はそんなに暇じゃない」

 左近は振り下ろした刀身を軽く振り、こびりついた血を振り落とす。
改めて身を起し、真っ直ぐに医師を見据えた。

「いいかい、先生。俺は、の軍師だ。
 この戦で、姫を殺すつもりはないし、も滅ぼさせやしません。
 姫に出来ないというなら、俺がするしかないだろう?」

「……さ、左近……さ…ま……」

 床に横たわっていた兵の一人が、苦しげに声を発する。
左近が視線を走らせた。

「俺らが……死ねば……は…救えるのか?」

「ああ。少なくとも、負担は少なくなるね」

「そうかぁ……なら、仕方ねぇなァ……」

 医師、薬師、看護兵が目を見張り、息を呑む中、声を上げた兵はよろよろと立ち上がる。
彼の傍に蹲っていた負傷兵が信じられぬと震えれば、無理を押して立ち上がった兵は荒い呼吸を吐きながら言った。

「…負けちまったら……国にいるおっかぁと俺の子……どうなるか分かんねえもんなァ……」

 彼の顔を隠していた兜が転がって落ちた。
その時に見た横顔を見て、左近が眉を動かした。

「…甚六さん……あんた……どうしてここに?」

 兵の独白を聞いた左近の顔に初めて、感情のぶれが現れた。
甚六と呼ばれた男は、苦笑した。

「へへ…おかしい…かい? 八百屋の俺が…志願してたのが…?
 でもなぁ…あの嵐の時も……この戦でも……きっと姫様はどうにかして下さる……そう信じてる。
 信じてるが……頼りきりじゃ……姫様も……苦しいよな……」

 甚六は辛うじて立っている他の兵の体を支えにしながら移動し、天幕の隅に集められた具足へと手を伸ばした。

「毛利の天下じゃ……きっとおっかあも俺の子供も…大事にはされねぇ…。
 でも姫さんなら……きっときっと、大事にして下さる……」

 「そうだろう?」と視線で問われた左近は、静かに一度頷いた。

「なら、仕方ねぇよなぁ……軍師さんの考えた一番の策が……これなら……したがわねぇとなァ…」

「…すいませんね…」

 低い声で左近が言う。
その声の硬さから、何かを悟ったのか、次々と負傷兵が立ち上がり始めた。

「左近様、このような真似は…!!」

 最後まで否を唱えようとしていた薬師の前を、また一人、また一人と負傷兵が通り過ぎて行く。
甚六と同じように具足を手にした兵達は、装備を整えた順に天幕を後にした。

「左近様!! このような非道、決して許されるものでは…」

「知ってますよ。これは俺の独断だ。許されるつもりも毛頭ない。全ての咎は、俺が一人で背負う。
 あいつらみたいに今地獄へ行くか…全てが終わってから地獄へ墜ちるか、どちらかってやつです」

 淡々と受け答えした左近は、身を翻して天幕を後にした。

 

 

 その日の夜。
の陣周辺から業火が巻き上がり、多くの屍を焼いた。
戦に潰えた人々の魂が、せめて安らぎの世界へ辿りつけますように…と、は櫓の上で黙祷していた。
 そんな彼女の膝元を、死兵達は通り過ぎて、最前線へと向かう。
何も知らない彼女を見上げた兵の一人が、眩しいものでも見るように目を細めた。
黙祷し、死者を悼んで泣くの姿には、"姫"と呼ばれるにはおよそ似つかわしくはない疲労感が満ちていた。

『ああ……そうかぁ……泣いてくれるんだなぁ…。
 …俺らなんかの為に……この人は…こんなにこんなに、心の底から嘆いてくれるんだなぁ…』

 階級制度の根強いこの時代、目上の者が目下の者を労わる事は皆無に等しい。
現代の"平等"という感覚を持ち得るだからこそ出来る政。
それに触れて、死兵は死地へ向かう覚悟を新たに固める。

「いい女だろう?」

 死兵隊の中腹を進む甚六がこそばゆいとばかりに笑った。

「俺は、あのお方が……最初に収めた…土地にいた者(もん)で…ね。
 よく…俺が…作った大根……おいしいって…言ってくれたんだよ…」

「姫さんが…大根を食うのか?」

「ああ……漬物にすると…美味いってな…良く笑ってたな…」

 槍を杖代わりに歩き、思い返すように甚六は笑う。

「そうなんじゃな…儂は徳川領で…姫さんの温情を受けたぞ…」

 どこからともなく、声が上がった。

「わしは北条の者(もん)だ…あの嵐の時は…ほんに驚いたのぅ…」

 よろよろと進む一団は、思い出話に湧きながら、それを糧に前へと進み続けた。

「慶次様!!! 増援が…!!」

「あ?」

 聞いていないと、怪訝な顔をした慶次の元へとやって来た兵は、慶次と同じように困惑を顔に貼り付けている。
その間に続々と兵は隊列の前方へと並んでゆく。
心許無い足取りの兵一人一人の姿を見た慶次が、目を大きく見開く。

「…おいおい、こいつらはもしかして…」

「…はい、死兵です…」

 の戦ではそんな戦法はあり得ないと、兵は声を殺す。
驚嘆し、動揺する兵の前で、並び切った死兵隊は口々に言った。

「誰の命でもないんじゃ…」

「…儂らが自分で…自分の意思で、来ましたじゃ」

「………そうかい………」

 慶次が奥歯を噛み締めて、本陣へと視線を移す。
この戦場にあって、このような悪役を平然とこなせる男は、ただ一人しかいない。

「…左近……形振り構っちゃいないね……」

 左近の考えを瞬時に理解し、戦況を理解し、これしか他に方法はないと、湧き起る数多の感情を呑みこむ。
慶次は、一度強く瞬きしてから、息を吐いた。

「聞きな!!!」

 慶次の声に、彼の元に集った兵士が耳を欹てて意識を集中する。

「ここは地獄だ!!! 悪鬼さえもが避けて通る地獄の釜の底だ!!
 だが本陣にはこの地獄を無くそうとする女がいる!!!!
 ただ一人、戦国の世にあって、死兵を嫌い、全ての人間の為に泣く女だ!!!
 俺達はその女と、女が作る国を護る!!! その為の兵だ!!!!」

 その通りだと、兵は小さく相槌を打つ。

「……お前さんらの命の最後の一花、この前田慶次が最後まで見届けやる!!!!
 派手に死に花、咲かせようやァ!!!」

 慶次が天高く鉾を掲げれば、松風が嘶いた。
兵達は手にした武具を打ち鳴らし、声高らかに咆哮した。

 

 

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