鬼軍師の涙 - 左近編

 

 

「同盟締約、無事に済みましたよ」

 松永家の家紋入りの誓約書を持って帰って来た左近が言う。
武装を解かない陣営に集う将兵の姿をを見た左近は思わず苦笑した。

「なんだ?」

 三成が怪訝な面持ちで問えば、左近は「失礼」と掌を見せて追及に待ったをかけた。
それからなんとかこみ上げる笑いを噛み殺して、告げた。

「向こうはもうとっくに引き上げる支度を済ませてたもんでね。おかしくなっちまったんですよ」

「ふむ、計略ではないという事ですか」

 竹中半兵衛が微かに眉を動かし独白する。

「ええ。松永家は本気でと同盟するつもりみたいだ」

 左近は頷いて答え、を見やった。

「ということで、こっちも無駄に刺激しないようにサクサク帰りましょ?」

「そうだね、支度しようか」

 の一声を受けて、まず第一に井伊直政が身を引いた。
続いて馬場信春が、雑賀孫市が、というように将兵が動き出す。
 家康、秀吉、半兵衛、半蔵がの傍に残り、左近もまた身を引いた。
左近の越権行為は、最後まで断罪される事はなかった。
戦時という非常事態であれば、こういうものなのかと思う反面、安心はできない。
というのも、身を引いた時の左近の身に纏いつく空気が、今までのそれとは何か、どこかが、違っている。
それをは本能的に感じ取ったのだ。

 

 

 本国への帰郷を決めて、が誰よりも先に本陣を後にする日。
は自分の護衛役に左近を指名した。

「俺ですか? しなきゃならない事、山程あるんですけどね?」

 今までであったなら、一も二もなく快諾しているであろう男の弁に、周囲は驚きを隠せない。
一方の横顔は、予感は思い過ごしではなかった事を悟り、物悲しそうに陰った。
 そんな目をされては敵わないと、左近は顔を顰める。

「分かりました。しっかり御守り致しましょう?」

「うん、宜しくね」

「はい」

 抱えていた雑務を長政に引き継いだ左近は馬を引き、と共に本陣を後にした。
護衛を務める為に、彼の騎馬は常にを乗せた輿の横へと寄り添っていた。
彼を始め、選りすぐられた兵が護衛として前後を固め、半蔵を始めとした伊賀忍が道中に気を配り先行する。
同盟締約がなったとはいえ、気は抜けない。
自身の本拠地である城へと帰還を果たすまでは、戦の終結を実感する事など出来はしないだろう。
誰しもが一時でも早く、安全にを城へと帰す事を考えていた。
が本拠地の天守閣に立った時、その瞬間こそが千日戦争の終結の瞬間だ。

「疲れませんか?」

 数多の兵が安全を確認した道中を、を乗せた輿は一路、本拠地を目指して進み続けた。
窓もない輿の中に半日も閉じ込められていては、滅入るのではないかと気遣えば、は小さく「そうね」と答えた。

「左近様! 道が土砂で塞がっております!」

「どかせるか?」

「はい!」

「そうか。前衛の半数で迅速に退かしてくれ。後衛は輿の周りを固めろ!! 不測の事態に備える」

「ハッ!」

 左近の命を受けて、兵が駆ける。
続々と輿の周りに衛兵が集い、防御に特化した陣を成す。
 だが心配は無用だったようだ。
千日戦争で家にとって埋伏の毒となった松永家には、と事を構える意志はないようだ。

『まぁ、あれだけの領地を手に入れたらそっちの統治に忙しくて俺らになんか構ってられないってところかね』

 かの勢力が巧い事、毛利・北条の残党を抑えつけているのだろう。
周囲には不穏な影一つ、見あたりはしなかった。
 ならば多少の気分転換も悪くはないのではないかと思い、左近が声をかける。

「少し、足動かしますか?」

「そうだね、ずーっと座ってたら、腰痛くなってきたかも」

 輿の中で「んー」と声を上げて、が伸びをする。
姫らしからぬ所作ではあるが、なんともらしい。
左近達が再度安全を確認し、に言った。

「姫、降りてきて平気ですよ」

「はーい」

「俺の傍から離れないで下さいね」

 気分転換とは言え、完全に安全ではないかもしれないからと左近が暗に示唆する。
もそれは理解しているのか、素直に頷いた。

「鎖帷子着こんでるから大丈夫だとは思うけど…」

 支度された草鞋をはき、半日ぶりの大地を踏みしめて、街道の際に立つ。
横には左近が立ち、神経を尖らせる。
行列の先端は土砂の撤去に必死だ。

「随分、本陣から離れたね」

「そうですね。だが城にはその分近づきましたからねぇ。心配する事ないですよ」

 二人の視線の先、くねる山道の向こうに長い間身を置いていた陣と砦が見えた。
遠目にも分かるほど傷んでいて、よく持ち堪えられたものだと感嘆の溜息が思わず洩れる。

「ねぇ、左近さん」

「はい?」

「城に戻る前に、一度話しておきたい事がある」

「俺に?」

「うん」

 横眼での顔を見やれば、表情を読む事は出来なかった。
さて、どうしたものかと考えていると、の方が視線を合わせて念を押して来た。

「いいかな?」

「え…ええ」

 その時見せた何もかもを見通したような眼差しに、思わず息を詰めた。
動揺を悟らせまいと、慌てて言葉を続けた。

「構いませんよ。なんなら今伺いましょうか?」

「んー、それはちょっと。あの林の中とかで二人きりになれない?」

 親指を立てて横に動かす。
欝蒼と茂る木々であれば、確かに眼隠しには丁度いい。
だがこのような場で隊列から離れることは得策とは言えまい。
これは困ったと左近が顔を顰めれば、は先に声を上げた。

「半蔵さん、ちょっと護衛に伊賀忍貸してくれる?」

「御意」

 姿を消していた半蔵がすぐさま二人の背に現れる。

「これで、安心でしょ?」

「はい」

 先手を打たれて左近としては両手を上げるしかない。

「分かりました、あちらで伺いましょう」

 

 

 左近の承諾を得て、は頷くと先に身を翻した。
行列から離れ過ぎぬように気を使い、かといって声が届かぬ程度の距離を保って茂みに入る。
秘密重視の伊賀忍がそこかしこに気配を殺して展開しているが、それは今に始まった事ではないので気には留めない。

「で、お話とは?」

 左近が両腕を組んで問いかける。
すると先を歩いていたが身を翻して言った。

「膝、ついて」

『ああ、首を所望しているのか』

 なんとなくそう思った。
ならばきっと目の前にいる彼女は伊賀忍の変じた姿。
本物は別の帰路で他の者の警護の元、国を目指しているのかもしれない。

『まぁ、どちらでもいいでしょ。姫が無事な事に変わりはない』

 慈愛の姫が築く治世。その中にあってはならない者、それが自分だ。
戦の為とはいえ、が決して取ってはならない策を、自分は執った。
は死兵の遺言と見逃してくれたが、それを鵜呑みには出来ない。彼女の判断がそうであっても、彼女の治世の為に自分と同じように行動を起こす人間が他に居てもなんら不思議はないのだ。

『やった事は巡り巡って自分に帰ってくる…それだけの話か』

 諦めなのか、納得なのか、左近が素直にその場に膝をついた。
己の膝の上に両手を乗せて、瞼を閉じる。
最愛の女の姿をした者に、手打ちにされるのであれば本望だと言わんばかりだった。
 そんな左近の姿を見、は苦しそうに眉を寄せた。
一歩一歩、距離を詰めて、左近の前に立つが、彼は動じない。潔いものだ。

「…どうしました? 遠慮はいらない、この首一つで丸く収まるんでしょ? なら安いもんだ」

「遠慮? 安い? 何言ってるのよ! もう、本当にバカなんだから!」

 左近の弁を受けて、が怒った。
次の瞬間、頬に柔らかい感触が降って来て、驚いて閉じた瞼を開く。
目の前にはさらさらと揺れる黒髪。
触れるふくよかな感触から、自分がに抱きしめられているのだと気がついた。

「え…? あ……へっ?」

 理解が及ばす、瞬きを繰り返す左近の耳に、の苦しげな声が響く。

「…やっぱり…思ってた通りだ……この前の…夜から……左近さん、何か変わった」

「!」

「気のせいとか言わないで。女には第六勘があるんだから…誤魔化したり出来ないんだからね?」

「いや、でも…しかし…」

 言い淀む左近を、は強く強く抱きしめる。

「左近さんが何を考えているのか、とか。どんな理由で心境が変化したのか、とか。
 私には良く分からないし、説明されても、多分理解出来ない事だと思う。
 だけどね、あの日からずっとずっと感じるの」

「…何を、ですか?」

 ひゅうひゅうと、の喉が鳴る。
泣きかけているのを懸命に堪えているのだと思った。

「姫? 何を、感じておいでで?」

「このままの左近さん…放っておいたら……きっと私達の為にいけないこと沢山沢山して、それで…最後は…」

「最後は?」

「全て一人で背負って死んじゃいそうで……それが、怖いの……」

「!」

 言い当てられた。
巧く立ち回って、想いを胸に殉じるつもりだったのに、その全てを、最愛の人に見抜かれた。
これは想定外だと左近は身を固くした。
 動揺を見逃さず、がたたみかける。

「お願いだから、そんなこと考えないで」

「…姫…」

 

 

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