遠くにいる貴方を思う。
傍にいて、支え続けることが使命だと天の声を聞いた。
その言葉を信じて、今まで片時も離れずに尽くしてきた。
これから先も、ずっとずっとそうするつもりだった。
時が流れ、彼女が誰か他の男の伴侶となっても、この想いは変わらない。
彼女を護り、彼女の産み落とす命を護り、彼女の作る世を護り続けるつもりだった。
だが、それは叶わぬ夢となった。
彼女がその地位を失った時、天に選ばれ仕えたはずの自分には、何も…何一つ、出来はしなかった。
『龍興殿、お待ち下さい!! まだ災害復興とて済んではおりませぬ、課税などすれば民は生活に窮します!!
かような政は、領下では忌むべきものです!! どうかお考え直し下さい!!』
『そなた、確か真田幸村と言ったな?』
『あ、はい』
『分を弁えよ!! この地はすでに儂のもの…領ではないわ!!』
『で、ですが…』
『くどい!!』
『お待ち下さい!! 龍興殿!!』
『下がれ、下郎が!!
ったく…これだから女に掌で転がされていた男は信用ならぬ…。
家名のない女は相応に強かというが、誠のようじゃな。
"日の本一の武士"が聞いて呆れるわ。ただ色香に迷った若造と言うだけではないか!!』
打開策を模索し、せめて彼女が返り咲いた時に困ることがないようにと、新たな城主の方針に口を挟んだ。
結果、新たな城主の怒りを買い、所払いにされてしまった。
幸いだったのは、かの騒動が起きる前に、敬愛する師が彼女の元に馳せ参じていた事だ。
「皆が残るなら大丈夫、そう信じてる」
城を後にする時、彼女はそう言い、微笑んだ。
なのに、その期待に背いてしまった。
所払いされた今、どの面を下げて彼女の前に出られようか。
慈愛の姫君との名高い彼女は許してくれたとしても、彼自身は、自分のことを許せなかった。
結局、彼は誰にも何も告げぬまま、彼女の元から姿を消した。それしか、出来なかった。
救いがあるとすれば、他に頼る宛てがなく、夜の闇に紛れて彼女の築いた国を離れた自分を、師が快く迎え入れてくれた事だけだった。
細い山道の中濃い夜霧に紛れて進軍する紅蓮の騎馬隊の姿があった。
先頭を預かるのは、真田幸村。
国の主、の臣として常に付き従って来た若武者だ。
『…私は……何時もそうだ…何時も何時も…様に甘えてばかりいる…。
様の為に、身命を賭して働くと言いながら、戦功すら上げられず…何のお役にも立ててはいない……』
かつての主の元に身を寄せて進軍する幸村の横顔には、の傍に立っていた時のような穏やかな色はない。
頼りなげな風貌を持つ真摯な熱血漢と人々は言うが、今はその片鱗すらない。
思いつめた暗い表情をしていて、本来の姿を知る人々が見たら、誰しもが気に掛けずにはいられない姿だ。
刻一刻と、表情を悪くしてゆく幸村を見ていた信玄は、密かに眉を寄せた。
「幸村」
「はっ」
呼ばれた幸村は騎乗する馬の速度を調節し、信玄の傍へと馳せ参じる。
すると信玄は軍配でぽこんと一つ幸村の頭を小突いた。
「焦る必要はないよ」
「!」
言い当てられて息を呑む幸村に、信玄は強く優しい眼差しを送る。
「おことがここにいることにも、必ず、意味はあるもんじゃよ」
「…お舘様…」
「ただ今は雌伏の時というだけじゃ。もうしばし、辛抱が必要なだけじゃ」
「しかし……私は、今までも…何一つ戦功を上げられては…」
「殿は、気にしていないよ。戦功などない世界を好む女子じゃ。気に病むでない」
「し、しかし…」
「やれやれ…幸村は"しかし"が多すぎるのぅ」
「…申し訳ございませぬ」
信玄は恐縮する幸村から視線を外し、遠目に浮かび上がって来た小ぶりな城を見上げる。
進軍する騎馬に強烈な殺気が漲って行く。
「…まずは、この城じゃろうな」
「はい……お舘様、かの者達の言葉は誠でありましょうか?」
幸村の言葉を受けて、信玄は懐から折りじわのついた書を取り出した。
主君・から体よく領地を奪った斎藤龍興の配下武将三名の連名で、寝返りと簒奪を奨める旨が記されている。
この書がなんらかの策である可能性は否めない。が、領地を奪われて一介の民に身をやつしているを返り咲かせるとっかかりは、現状では他には見出す事が出来ない。
婚姻という手法ならばまだしも、強力なコネクションは何一つ持たぬ身だ。
それが領地と地位を失ったとなれば、世に再び出す為には、相当の労力と功績とを必要とする。
それらを短期間で成し得るのは不可能だ。
人は神聖であればこそ、彼女を求める。
だが神聖であり続けなければならないからこそ、お家再興の為に、見合わぬ婚姻をさせるわけにはゆかない。
「悪循環じゃな……じゃが、天意はそう易々とこの乱世から殿を逃すつもりはないようじゃの。
ほれ、こうしてお膳立てをしてくれよる」
手の中の書状をゆらゆらと揺らせる信玄の眼差しには、軽い声色とは裏腹に、一分の余裕もなかった。
無理もない。自身が今身を寄せている策謀渦巻く地にはに預けられた若き君主を残したままだ。
かの地にを招き、再起を促す事は簡単だ。
だが、かの地は災害の爪痕をまだ生々しく残し、邪な家臣が跋扈する大地だ。
おいそれと招き入れられるような場所ではない。
となれば、現段階では書に記された申し出に乗り、この城を落として、そこへ招くのが最良だろう。
「行きはよいよい…帰りは怖い…のぅ」
「元より帰り道など不要。この城を落とし、必ず様をお迎えしてみせます」
ギラギラした眼差しの幸村の言葉に、信玄は小さく頷いた。
「長居は出来ぬ戦じゃ。電光石火で決めようかの」
「はっ」
打ち合わせしていた通りの位置に布陣して、城内からの合図を待った。
が、指定の時刻になっても城の中から動きが出ない。
謀られたのか? と武田勢が痺れを切らし始めた矢先、城下町から抜け出してきたという忍が一つの情報を齎した。
「何?! 内応が露見しているだと?!」
「はっ……どこから情報が漏れたのかは定かではありませぬが……」
「件の三人はどうなっているのかね?」
「策の露見を有耶無耶にする為に評定を願い出ております。
現在は各自謹慎を通達されて、邸宅に…。謹慎とは申しますがそれは名ばかり。
見張りが付けられ、連絡も取れぬようにされており、事実上の幽閉にございます」
仕切り直すべきかと、幸村が信玄に視線を送れば、信玄は軍配で面をコツコツと叩いた。
彼が思い悩んでいる時の癖だ。
「嫌な予感がするよ」
程無く軍配を降ろした信玄は、低く独白した。
信玄の予感は、程無く現実のものとなった。
「お舘様〜〜〜!!!」
早馬が駆けて来て彼が身を寄せている城からの伝令を伝える。
報を受け取った信玄はすぐさま馬を走らせ始めた。
軍配を振り上げ、進軍の合図を出す。
「幸村!!」
「はっ」
追随した幸村へと信玄は言った。
「時は火急を要する。儂が城を攻めている間に幽閉されている三人を見つけ出し、引き入れるのじゃ!!」
信玄の後に続く本隊から幸村は少数の手勢を連れて離れると、斎藤領の城下町へと向かった。
「拙者は幸村殿を案内致します」
「うむ、頼むよ」
「しからば、御免」
木々の間を縫い、行動を起こした信玄の後に続いていた密通の任を担う忍が姿を消す。
信玄はそれに目もくれずに手勢を動かし、斎藤城攻めを開始した。
彼の元に届けたられた伝令は、雑賀衆頭領・雑賀孫市からのもので、二通あった。
一通は自身が認めた計略に対する快諾の書面。
もう一通がその後で早馬で届けられたとされるもので、かつて収めた大地でが返り咲いたという朗報。
そして同時に、毛利・北条軍に攻め込まれ劣勢の中奮戦しているというものだった。
『斎藤と毛利・北条に組まれては、厄介じゃ。ここは儂らで止めるしかないのぅ』
後に斎藤城攻防戦と呼ばれた北西の千日戦争は、悲壮を極めた。
信玄が城攻めを開始して数刻後には、毛利・北条連合と斎藤家との同盟が成立している事が発覚したのだ。
内応者による先導で二日と掛らずに済むはずだった攻城戦には、当初より兵力を多く割くつもりはなかった。
そもそも武田信玄がこの地にいるのも、帰順した小国が内包する不穏な影に睨みを利かせながら復興を完遂させる為であって、こうして斎藤家と戦をする為ではないのだ。
聡明な若き君主は信玄に言った。
「我が君のため、立って下さい。てき方の将が、国のために助けを求めたのです。
これは義のいくさであろう? ならば迷いは不要と思います。
信玄殿。私は、一人でも大丈夫です」
時を逃すわけには行かないと判じた信玄は、二日で帰ると約束し、かの地を発った。
信玄が連れて来た手勢はたった三千で、後方支援は期待できない。
全ては内応があればこそ起こせた戦だ。
だが、現地に入れば事情は全く異なっており、辿り着いた斎藤城周辺には既に強固な防衛網が敷かれていた。
幸村は単騎に近い状態で城下を駆け巡り、幽閉されていた斎藤方の三将を救いだした。
彼らに加担した兵を吸収できても、武田の手勢は騎馬と歩兵のたった五千。
対して、重火器・兵糧・兵数ともに憂いがない斎藤城は一万二千の軍勢を持って、包囲殲滅戦を展開してきた。
暗愚な君主に見限りをつけた民や商人を味方につけ兵站を維持する事が出来ても容易に叩き潰せる数ではない。
幸村に任を託した信玄は、鉄砲隊と大筒隊の防衛戦線の攻略に手間取り、幸村達が合流する頃には、敵の手勢に背後を取られていた。
「いやはや…囲まれちゃったのぅ」
不利な状況下にあっても信玄は飄々と言う。
「面目ない」
「この失態は武働きで返す故、活目されよ!!」
「以後は、宜しくお頼み申す!!」
幸村の働きによって武田勢に合流した斎藤方の三将―――――氏家卜全、稲葉一鉄、安藤守就は破れかぶれとばかりに武を奮った。暗愚な城主よりも彼らに信を置いていた一部の将兵が城内で牙を剥いて、斎藤城を混乱に陥れている頃、幸村は武田軍の先駆けとなり武勇を揮い続けていた。
彼の耳にも、の身に迫る危機は届いていた。
『私のせいだ!! 私が未熟なばかりに…様がかような目に…!!!』
焦りが生んだ隙を敵が見逃すはずもなく、幸村は斎藤城二の廓から放たれた凶弾に倒れた。
幸い致命傷にはならなかったが、彼の身体能力は著しく低下した。
「真田幸村だぞ!! 討ち漏らすな!!」
ここぞとばかりに襲いかかられ、騎馬から落ちた幸村は、全身を土煙で汚しながらも危機を回避した。
四方八方から打ち込まれた刃を槍で受け止めて、押し返す。
内通の任を担った忍の助太刀により、煙幕に身を隠して難を逃れた彼は、治療もそこそこに、戦場へと戻った。
「真田幸村を狙え!! 奴は手負いだ!!」
「武田の士気の要は奴だぞ!!! 奴を殺し、士気を削ぐのだ!!」
負傷の報により、敵方の将兵は幸村に標的を定めて、続々と襲いかかってくる。
けれども幸村は怯むことなく立ち向かい続けた。
武を揮えば揮うほど、傷口が開き、鮮血が舞った。
体は重くなり、指先からは力が抜けて、視界も朦朧とする。
だが幸村の心は、一時たりとも折れはしなかった。
「く…しぶとい男だ…」
「兵力に差がある、休ませずに擦り潰せ!!」
「鉄砲隊を配備せよ!!」
内側の騒乱を収めた斎藤城から激が飛び、城内の将兵が慌ただしく動く。
物陰から物陰に移動し、凶弾を避けながら、迫ってくる敵を討つ。
今や幸村の全身は、敵の返り血と、自信が流した血とでどす黒く汚れていた。
不利な戦は長期間続き、武田主従であるからこそここまで粘れたと言われるほどの戦となった。
その間にも斎藤城には毛利・北条からの増援が続々と入り、主・斎藤龍興すらも領から逃亡し、返り咲いた。
例え暗愚であってもいないよりはいた方が士気は上がる。
結果、武田勢の攻城戦は、への侵攻の後押しに回らせないための防衛戦の様相を呈し始めた。
『様!! どうか、どうかご無事で…!!』
何頭もの騎馬を潰し、多くの将兵を討ち取り、朦朧とした意識のまま重い体を引きずりながら幸村は戦い続けた。
城内から打って出る将兵を押し留め、隙あらば城に攻め込まんと奮戦する。
鬼気迫る幸村の姿に鼓舞されて、武田勢は少数でありながらも士気は常に高かった。
だが戦地を駆け続ける幸村の心身は限界を振り切っていて、医療に携わる者が見れば、一目でドクターストップをかけるような危険な状態だった。
誰かが止めてやらねばならぬと分かっていながら、一進一退の戦況がそれをなかなか許しはしない。
その上、怖れていた事がついに起きた。
二日のはずが長期間の駐屯を余儀なくされた戦だ。
当然、国元にあった悪意が、ここぞとばかりに牙を剥く。
少数の部下に身を護らせていた若君が、毒を盛られて床に臥せったのだ。
一命は取り留めたものの、これによって若君を亡き者にしようとした者が"代行者"の肩書の元、所領での実権を握るようになる。
正に、孤立無援。信玄と幸村の後方は更に不穏なものとなった。
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