出雲の阿国 |
束の間の静養を経て、が起き上がれるようになると、慶次が待ち構えていたように声をかけて来た。 「なぁ、久々に気分転換に街に降りてみないか?」 ごたごた続きので、こんな風に遊び半分でいていいものなのか? とは戸惑いを隠せない。 「さんが倒れたって話が街に広がり始めてる。 「景気づけって事?」 「それもあるがね。俺としちゃー、気分転換の方が大事だと思うのさ」 慶次は大きな指での頬をぷにぷにと押しながら、笑った。 「さん、あんた静養ってことで床に臥せってる時も、政の事ばかり考えているだろう?」 「え、あ……うん」 「それじゃ疲れちまうよ。 「………慶次さん…」 「この地に降りた時、部屋を選んだ時の言葉を思い出しな」 「あの時の言葉…?」 なんだっただろう? と僅かに首を傾げれば、慶次が代わりに言った。
「"君主はする。だが私室に入ったらぷらいべーとだから、仕事のことは考えない。 「…慶次さん…」
「三成が政務に忙殺されて、幸村が復興につきっきりになってる今が丁度いいと俺は思うがね。 は自分の頬に添えられた指先に掌を重ね合わせて、一度だけ瞬きした。 「行っちゃおうか?」 「ああ。行こうぜ!」 「うん!」
支度を整えて、こっそり足を伸ばす久々の御忍び視察は、の心に栄養を与え、民にも安寧を齎す為のものであるはずだった。そう思えばこそ、内勤勢の竹中半兵衛を始めとした副将達が見て見ぬふりをしたのだ。 「出雲大社、勧進どす〜。御心付け、おくれやす〜」 それはそれは涼やかに、華麗に舞う一人の巫女の姿を見つけた時だ。 『………え、何? その速さ……知ってる子なの?』 人間それなりに人生経験を積めば敏くもなるものである。 『え、何、その速さ…? 浮気相手? それとも…私がキープ的な扱いで、 「姫さん…姫さん」 「えっ、あ、はい。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」 「ま、孫市の旦那ん所行くんでしょ? 早くしないと幸村様達がきますぜ」 「うん、そうだね。今行く」 大工に手を引かれて場から離れたの背を人々は黙って見送る。 「今の凄かったな」 「ああ…背筋が凍った」 「姫様気が付いてなかったみたいだけどよ……凄い眼してたぜ」 「あれは女の嫉妬だと見たね、俺は」 「そうかぁ…? 主をほっぽり出して女の所に行ったから腹立っただけだろ」 またもや民草の間で始まったの婿取り問題の予想話。 「阿国さん、相変わらず華があるねぇ」 「あらぁ、慶次様〜。ご無沙汰しておいやす〜」 「領で勧進かい?」 「へぇ、あまり巧くゆきませんで、うち、困ってしもうて…慶次様にお会いできてよかったわぁ」 「残念ながら、俺も今回は力にはなれそうにないぜ?」 「そんな〜、いけずいわんと〜」 肩に乗せていた番傘をたたみ、慶次へと阿国がすり寄る。 「いやな。助けてやりたいのは山々なんだがね。 「それは災難どすなぁ…。君主様は、何かに祟られとるんと違いますか?」 「あー、その可能性はあるかもな。なんせ凄まじい巻き込まれ体質だ」 慶次が身を起して腕を組んだ。 「余裕があれば、俺が話通してやるのも吝かではないんだがねぇ。 「そうどすか〜」 阿国が肩を落とした。 「隣の松永領なんかどうだい? 毛利をそのままそっくり吸収してるからね。 「松永様……?」 「ああ。あれだけ領地持ってりゃ、千両箱の一箱くらいは軽く包んでくれるんじゃないかねぇ」 顎を擦り、ちらりと視線だけで阿国の心の向きを探る。 「千両箱! 魅力的な響きやわぁ」 阿国の目の色が変わる。 「でも……うち、一介の巫女どすぇ。松永様とお会いできない気がするわぁ…」 「そこはあれだ。領から流れて来たって振れ回ってみなよ」 阿国が大きく瞬いた。 「どうも隣の君主様はに恩を売りたいらしくてね。虎視眈々とその機会を狙ってる節がある。 「まぁ、ええこと聞きやした」 「善は急げだ。日が暮れる前に発つかい? 街道まで送ってくぜ?」 慶次の言葉を受けた阿国の顔が、にっこりと微笑んだ。 「嬉しいわぁ。せやけど慶次様、うち、もう少しここにおりますわぁ。 「え゛っ、いや、気のせいじゃないかねぇ?」 藪蛇だったかと慶次が身動ぎする。 「間違いあらしまへん。慶次様、何時もよりお優しいわぁ」 「いやー、たまたまだよ。今日は非番でね、暇ってだけなのさ」 「なら、うちを案内しておくれやすぅ」 「はははは、阿国さんには敵わないねぇ」 何時の間にかがっちりと組まれた腕に、阿国の胸が当たる。 『……参ったねぇ…』 彼女に手を引かれる形で、慶次の視界は180度反転した。 『やっぱり、怒ってるよねぇ…放り出しちまったしねぇ』 離れたところで孫市に肩を抱かれるの口元は不自然に引き攣り、目は据わり、背後には灼熱の炎が巻き上がっているように見えた。慶次の判断は正しいようで、彼女と自分の間に立つ多くの民が脅えたように視線を宙に泳がせて、息を詰めている。 『……死ね…』 がにっこりとほほ笑んで、孫市と手を繋いで市の方へと歩き出す。 『今確実に"死ね"って言われた気がするぇ……妬いてくれてんのかねぇ。 人混みに紛れてしまった達の背を追っても仕方がない。
「さ、左様でございますか」 「うん、そう。なんか昔の彼女とか、そんなんなんじゃないかな? 孫市と連れだって市を徘徊して、一刻と経たずには幸村に捕獲された。 「ということで、今回の御忍び視察は私は悪くないと思う。 「は、はぁ…」 それはどうだろう? とここで反論をするのは、恐らく藪蛇だ。 「分かりました。では今回の事は、後で慶次殿にじっくりと御話致します」 「そうね、そうして。でも明日にした方がいいんじゃない?」 「と、いいますと…?」 「元彼女だったら、そのままその辺の宿に二人で泊って朝帰りなんてケースもあるかもしれないじゃない」 言葉の端々に凄まじい棘が生えている。 「拙者、み、見回りに…」 「そ、某も…」 「あ、あっしはそろそろこれで…」 皆、番屋の外へと次々に逃げ出した。 「エッ?! 皆、今戻って来たばかりでは…」 動揺する幸村が追い縋る前に、の瞳が更に強い殺気を帯びた。 「何? 幸村さん、私と二人きりは嫌なの?」 「い、いえ、そのような事は!! めっそうもございません!!!」 「ならいいんだけど」 「し…しかし、様」 「何?」 「いくら慶次度でも、勧進巫女を相手に、流石にそのような事にはならないと思いますが…」 「…………幸村さん」 「え? あ、はい?」 「幸村さんは、慶次さんの味方なの?」 また始まった。 「いえ、そのような事は!!!!!」 『幸村様……生キロ…』 番屋の外で様子を見ている野次馬の心が一つになった瞬間だった。 「そう、ならいいんだけど」 は湯呑を取り上げてずずすっとお茶をすする。 「あの…聞いてはいけない事なのかもしれませんが…」 「何?」 お茶受けのせんべいを取り上げてばりぼり食い出したに、幸村の声はどんどん小さくなる。 「た、例えばですよ? 例えば、今回の慶次殿のように……………私が阿国殿に対して同じような事をしたら…」 『幸村様ー!! それ地雷ー!!!!』 『気がつけー!!!』 『姫様、今ものすっごい顔してるぞ、オイ!!!』 下を向いてしまったせいで、幸村にはの顔が目に入らない。 「幸村さん」 「は、はい」 「人とお話する時は、相手の目を見ようよ」 それもそうかと、幸村は顔を上げたが、次の瞬間には凄絶に後悔した。 『あわわわわわわっ!! お、お舘様…わ、私はどうしたら…!!』 メデューサに睨まれたかのように息を詰める幸村に、はギラギラした眼差しを送る。 「それでさっきの答えだけど…もし幸村さんもそうなったら、だったっけ?」 「あ、はい、いえ…もう、いいです。そんなこと…起こりませんし…起しませんし……良く分かりましたので…」 「そう?」 「……はい…」 『怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い』 内心で大粒の涙を零しながら、幸村はこの話題を切り上げて、を送って城まで帰るより他になかった。
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