出雲の阿国

 

 

 束の間の静養を経て、が起き上がれるようになると、慶次が待ち構えていたように声をかけて来た。
先の件では居残り組になった彼は、これまでとこんなにも長く離れ離れになっていたことはない。
それだけに焦れていたのだろう。

「なぁ、久々に気分転換に街に降りてみないか?」

 ごたごた続きので、こんな風に遊び半分でいていいものなのか? とは戸惑いを隠せない。
だが、そんなの心理を先読みしたように、慶次は言った。

さんが倒れたって話が街に広がり始めてる。
 今回の騒動も下々に知れ渡っちまった今、さんがあまり大人しくしてるとな、連中も活気を失う。
 必要以上に不安になっちまうのさ」

「景気づけって事?」

「それもあるがね。俺としちゃー、気分転換の方が大事だと思うのさ」

 慶次は大きな指での頬をぷにぷにと押しながら、笑った。
彼にしては珍しく、ほんの少し困っているような笑みだった。

さん、あんた静養ってことで床に臥せってる時も、政の事ばかり考えているだろう?」

「え、あ……うん」

「それじゃ疲れちまうよ。
 暗礁に乗り上げた時は、潮が満ちて来るのを待つのも一つの手だ。
 悩んでるばかりがいいとは限らないんだぜ?」

「………慶次さん…」

「この地に降りた時、部屋を選んだ時の言葉を思い出しな」

「あの時の言葉…?」

 なんだっただろう? と僅かに首を傾げれば、慶次が代わりに言った。

「"君主はする。だが私室に入ったらぷらいべーとだから、仕事のことは考えない。
 それでいいなら、君主を頑張る"、あの時、さんはそう言った。
 俺らの感覚からしたら、到底褒められたもんじゃない言葉だ。
 だが今のさんには、それこそが必要だ」

「…慶次さん…」

「三成が政務に忙殺されて、幸村が復興につきっきりになってる今が丁度いいと俺は思うがね。
 それとも俺と二人きりで出かけるのは、そんなに抵抗があるかい?」

 は自分の頬に添えられた指先に掌を重ね合わせて、一度だけ瞬きした。
瞼を開けたの目には悪戯っ子のような光が煌き、口元には自然と笑みが浮く。

「行っちゃおうか?」

「ああ。行こうぜ!」

「うん!」

 

 

 支度を整えて、こっそり足を伸ばす久々の御忍び視察は、の心に栄養を与え、民にも安寧を齎す為のものであるはずだった。そう思えばこそ、内勤勢の竹中半兵衛を始めとした副将達が見て見ぬふりをしたのだ。
 だが結果はそう色よいものではなかった。
慶次が示唆したとおり、が顔を見せた事での禄を食む民には活気が戻った。
そしてにとってもいい気分転換になった。
 だがそれが姿形を変えたのは、慶次と二人で改修が済んだ自然公園の前に来た時のこと。

「出雲大社、勧進どす〜。御心付け、おくれやす〜」

 それはそれは涼やかに、華麗に舞う一人の巫女の姿を見つけた時だ。
巫女の柔らかくおっとりとした声を聞き、後ろ姿を見た瞬間、慶次は顔色を変えた。
彼はすぐさまの手を引いて近くにいた大工に孫市の所まで送るように言いおくと、には見向きもしないでその巫女の元へと駆けて行った。

『………え、何? その速さ……知ってる子なの?』

 人間それなりに人生経験を積めば敏くもなるものである。
今の慶次の行動はにとっては、バッティングさせたくない女同士を前にした男の行動に重なるものがあった。

『え、何、その速さ…? 浮気相手? それとも…私がキープ的な扱いで、
 その子が本命で、一緒のところを見られたくないとか、そういう話?』

「姫さん…姫さん」

「えっ、あ、はい。ごめん、ちょっとぼーっとしてた」

「ま、孫市の旦那ん所行くんでしょ? 早くしないと幸村様達がきますぜ」

「うん、そうだね。今行く」

 大工に手を引かれて場から離れたの背を人々は黙って見送る。
の姿が建築資材を運ぶ人混みの向こうに消えた時、初めてその場に残っていた人々の口から盛大な溜息が洩れた。

「今の凄かったな」

「ああ…背筋が凍った」

「姫様気が付いてなかったみたいだけどよ……凄い眼してたぜ」

「あれは女の嫉妬だと見たね、俺は」

「そうかぁ…? 主をほっぽり出して女の所に行ったから腹立っただけだろ」

 またもや民草の間で始まったの婿取り問題の予想話。
それを小耳に挟みながら、慶次は内心で苦笑いするしかなかった。
妬いてくれるのならば、こんなに嬉しい事はないが、それよりも今彼がしなくてはならない事は、別にある。
 なんとしてもと遭遇する前に、目前に立つこの華麗な巫女を、領から体よく退去させなくてはならない。

「阿国さん、相変わらず華があるねぇ」

「あらぁ、慶次様〜。ご無沙汰しておいやす〜」

領で勧進かい?」

「へぇ、あまり巧くゆきませんで、うち、困ってしもうて…慶次様にお会いできてよかったわぁ」

「残念ながら、俺も今回は力にはなれそうにないぜ?」

「そんな〜、いけずいわんと〜」

 肩に乗せていた番傘をたたみ、慶次へと阿国がすり寄る。
そんな阿国の耳元に慶次は顔を寄せて、自分も困っているというように顔を顰めて見せた。

「いやな。助けてやりたいのは山々なんだがね。
 三年ほど前に大きな嵐が来てねぇ。その復興が終わる前に泣きついてきた周囲の国取り込んで、
 毛利ともドンパチやらかしてたもんだから、国にも民にも余裕がないのさ」

「それは災難どすなぁ…。君主様は、何かに祟られとるんと違いますか?」

「あー、その可能性はあるかもな。なんせ凄まじい巻き込まれ体質だ」

 慶次が身を起して腕を組んだ。

「余裕があれば、俺が話通してやるのも吝かではないんだがねぇ。
 そんな余地がない事は、俺のような男の目から見ても明らかだ。
 今勧進するなら余所の国でやる方がいいと思うねぇ」

「そうどすか〜」

 阿国が肩を落とした。

「隣の松永領なんかどうだい? 毛利をそのままそっくり吸収してるからね。
 余裕があるんじゃないのかねぇ」

「松永様……?」

「ああ。あれだけ領地持ってりゃ、千両箱の一箱くらいは軽く包んでくれるんじゃないかねぇ」

 顎を擦り、ちらりと視線だけで阿国の心の向きを探る。

「千両箱! 魅力的な響きやわぁ」

 阿国の目の色が変わる。

「でも……うち、一介の巫女どすぇ。松永様とお会いできない気がするわぁ…」

「そこはあれだ。領から流れて来たって振れ回ってみなよ」

 阿国が大きく瞬いた。
「どうして?」と暗に聞いている。

「どうも隣の君主様はに恩を売りたいらしくてね。虎視眈々とその機会を狙ってる節がある。
 から流れて来たっていえば、それだけで興味を示すかもしれないぜ?」

「まぁ、ええこと聞きやした」

「善は急げだ。日が暮れる前に発つかい? 街道まで送ってくぜ?」

 慶次の言葉を受けた阿国の顔が、にっこりと微笑んだ。

「嬉しいわぁ。せやけど慶次様、うち、もう少しここにおりますわぁ。
 色々見て回りたいし、ここにいると、慶次様、何時もと違うて、なんやお優しいわ」

「え゛っ、いや、気のせいじゃないかねぇ?」

 藪蛇だったかと慶次が身動ぎする。
阿国はススス…と更に擦りよる。

「間違いあらしまへん。慶次様、何時もよりお優しいわぁ」

「いやー、たまたまだよ。今日は非番でね、暇ってだけなのさ」

「なら、うちを案内しておくれやすぅ」

「はははは、阿国さんには敵わないねぇ」

 何時の間にかがっちりと組まれた腕に、阿国の胸が当たる。
その感触を素直に喜べないのは、慶次の背に突き刺さる多くの視線と、それらを凌駕した底冷えした気迫のせいだ。
 振り返りたくない。今は絶対に目視で確認したくはないとは思うものの、阿国の足はそれを許しはしない。

『……参ったねぇ…』

 彼女に手を引かれる形で、慶次の視界は180度反転した。
人ごみよりも大分高い慶次の視線が、数十メートル先に立つ、と孫市の姿を捉える。

『やっぱり、怒ってるよねぇ…放り出しちまったしねぇ』

 離れたところで孫市に肩を抱かれるの口元は不自然に引き攣り、目は据わり、背後には灼熱の炎が巻き上がっているように見えた。慶次の判断は正しいようで、彼女と自分の間に立つ多くの民が脅えたように視線を宙に泳がせて、息を詰めている。
 慶次との間の異様な緊張感を察した孫市は、これ幸いとばかりにの肩を抱いて耳元で睦言を紡いでいる。
それに気が気じゃなくなり、掻っ攫いに行きたくなるが、そうもゆかない。
まずはこの腕に絡みついている巫女を国外退去にすることが先決だ。

『……死ね…』

 がにっこりとほほ笑んで、孫市と手を繋いで市の方へと歩き出す。
その際に見せられた視線には、慶次程の猛者でさえ怯ませる凄味があった。

『今確実に"死ね"って言われた気がするぇ……妬いてくれてんのかねぇ。
 だとしたらこんなに嬉しい事はないし、可愛いんだけどねぇ…。
 こりゃ後で誤解を解くのが大変だな』

 人混みに紛れてしまった達の背を追っても仕方がない。
しかも自分は阿国連れだ。行ったところで火に油を注ぐことは目に見えている。
ならば当初の目的をさっさと果たそうと、慶次は早々と諦めた。
慶次は阿国に腕を引かれ、彼女の望むまま城下町の人混みの中へと紛れた。

 

 

「さ、左様でございますか」

「うん、そう。なんか昔の彼女とか、そんなんなんじゃないかな?
 自分から私を誘っておいて、見つけた途端私の事は放りだして、そのままその子と仲良く腕組んで、
 どっかに消えたわよ

 孫市と連れだって市を徘徊して、一刻と経たずには幸村に捕獲された。
今日のの機嫌の悪さは自分の手には負えるものではないと判じたのだろう。
孫市はの面倒を一手に幸村に押しつけて、さっさと姿をくらました。
それがまた苛立たしいのだと、幸村の前では唸る。
 二人は番屋の中に腰を据え、幸村が淹れた茶を啜りながら向かい合わせに座して話している。
本来ならば素行について、幸村に説教をされる立場のだが、今日は虫の居所が悪いせいもあってか、大人しく聞くような素振りはない。

「ということで、今回の御忍び視察は私は悪くないと思う。
 誘っといて逃げ出した慶次さんが一人で一番悪いと思います」

「は、はぁ…」

 それはどうだろう? とここで反論をするのは、恐らく藪蛇だ。
それは女性経験に後れをとりがちな幸村にも、なんとなくだが分かった。

「分かりました。では今回の事は、後で慶次殿にじっくりと御話致します」

「そうね、そうして。でも明日にした方がいいんじゃない?」

「と、いいますと…?」

元彼女だったら、そのままその辺の宿に二人で泊って朝帰りなんてケースもあるかもしれないじゃない」

 言葉の端々に凄まじい棘が生えている。
もし仮にそんな事にでもなれば、あの慶次ですらただでは済まない事が、誰の目に見ても明らかだった。
 同じ番屋で仕事をせねばならない警吏の皆さまは、の全身から迸る気迫に恐れをなして、

「拙者、み、見回りに…」

「そ、某も…」

「あ、あっしはそろそろこれで…」

 皆、番屋の外へと次々に逃げ出した。

「エッ?! 皆、今戻って来たばかりでは…」

 動揺する幸村が追い縋る前に、の瞳が更に強い殺気を帯びた。

「何? 幸村さん、私と二人きりは嫌なの?」

「い、いえ、そのような事は!! めっそうもございません!!!」

「ならいいんだけど」

「し…しかし、様」

「何?」

「いくら慶次度でも、勧進巫女を相手に、流石にそのような事にはならないと思いますが…」

「…………幸村さん」

「え? あ、はい?」

「幸村さんは、慶次さんの味方なの?」

 また始まった。
vs三成戦の時の左近に対するノリと同じノリだ。
幸村はその矛先が自分に向く日が来るとは考えてもみなかったようだ。
一瞬の内に身じろぎし、次の瞬間には土間に降りて土下座していた。

「いえ、そのような事は!!!!!」

『幸村様……生キロ…』

 番屋の外で様子を見ている野次馬の心が一つになった瞬間だった。

「そう、ならいいんだけど」

 は湯呑を取り上げてずずすっとお茶をすする。
幸村の即答を受けて、幾分か怒りが収まったようだった。
幸村は恐る恐るという様子で顔を上げ、土間から畳の上へと戻ると、控え目に問いかけた。

「あの…聞いてはいけない事なのかもしれませんが…」

「何?」

 お茶受けのせんべいを取り上げてばりぼり食い出したに、幸村の声はどんどん小さくなる。

「た、例えばですよ? 例えば、今回の慶次殿のように……………私が阿国殿に対して同じような事をしたら…」

『幸村様ー!! それ地雷ー!!!!』

『気がつけー!!!』

『姫様、今ものすっごい顔してるぞ、オイ!!!』

 下を向いてしまったせいで、幸村にはの顔が目に入らない。
が、番屋の外に逃げ出したり、物珍しさで寄って来た野次馬達は違う。
彼らはの背に、顔に阿修羅像の憤怒の顔を見、また薄い障子一枚越しに迸ってくる殺意にも似た波動に、恐れをなしてガタガタと震えていた。
 普段が温厚なだけに、の見せる顔は、彼らにとっては馴染みが薄いものだ。
三成との言い争いを何度か町中でも見かけたことはあるが、その時は大抵がやり込められて泣きながら慶次に告げ口しているか、彼の細腕に抱かれ連行されてゆく姿ばかりである。
 このようにが怒れる人物などとは、誰も思いもしなかったのだから無理もない。

「幸村さん」

「は、はい」

「人とお話する時は、相手の目を見ようよ」

 それもそうかと、幸村は顔を上げたが、次の瞬間には凄絶に後悔した。

『あわわわわわわっ!!  お、お舘様…わ、私はどうしたら…!!』

 メデューサに睨まれたかのように息を詰める幸村に、はギラギラした眼差しを送る。

「それでさっきの答えだけど…もし幸村さんもそうなったら、だったっけ?」

「あ、はい、いえ…もう、いいです。そんなこと…起こりませんし…起しませんし……良く分かりましたので…」

「そう?」

「……はい…」

『怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い』

 内心で大粒の涙を零しながら、幸村はこの話題を切り上げて、を送って城まで帰るより他になかった。

 

 

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