出雲の阿国

 

 

 暗殺疑惑が一段落した事で、懇談後に捕虜として留め置かれていた兵達も無事に帰郷することになった。
これで秀吉がに吐いていた嘘は、二つ消えたことになる。
残る嘘は、二つ。内一つは、に聞かせても良い結果にはならないだろうからと、敢えて伏せた。
くのいちであれば、主の為に死ぬのは当然のことと、伊賀忍頭領・服部半蔵もそれを不服とはしなかった。
寧ろ忍としての務めを立派に果たせた事を一族は誇りに思っているという。
 残った嘘はただ一つ。服部の件のみになった。
諸将はこのことについて、に切り出すタイミングを計りかねていた。
言わなくてはならないとは重々承知していたのだが、突き上げを食らったのが伊賀忍頭領の愛妻であったならば、
彼女を突き上げたのはあの徳川家康の側室・梶の方だ。
家康不在のところで、この問題を語るには些か面倒が過ぎたのだ。
 それに、城下に舞い込んでいる災禍の種もある。
一先ずはそちらから対処するに限ると、誰もが考えた。

「ということで、左近。お主の出番じゃ」

「俺ですかい?! よりにもよって」

 秀吉に名指しされた左近は盛大に顔を顰めて見せた。

「幸村、三成じゃどうにもならんわ」

「孫市さんがいるでしょう」

「とっくに雲隠れしとるわ。面倒事は嫌いな奴じゃからのう」

「…やれやれですね、全く…」

 「慶次さんももっと巧くやって下さればいいのにねぇ」と左近が毒づけば、秀吉は「相手が悪い」と即答する。

「美人計に耐性のあるおみゃーさんしか、頼れんよ。
 様の怒りが爆発する前に、慶次を城へ戻すんじゃ」

「で、肝心の巫女さんの扱いはどうします?」

に仕官するならば構わんが、そうでもないなら当面余所へ行ってもらっといた方がええじゃろ。
 の財力じゃ、寄進したくても出来んのさ」

「了解しました。やってみましょう?」

 「頼むわ」と片手を上げた秀吉の前を辞して、左近は城中の回廊を進む。
窓の外を見やれば日差しは温かく、桜の花弁が舞っていた。
季節がめぐり、各地にいる将兵の尽力もあって、帰順した国々を含めた領下の復興も整いつつある。
出来る事ならば、このまま恙無く時を刻めるに越したことはない。
 重なり続けた疲労困憊の為か、最近のはこうした季節の変わり目にすら意識を向けられなくなっている。
願わくば、に常日頃の余裕が戻りますように。穏やかな時間を享受することが出来ますように。
 そしてそれを成し得る為には、出雲の阿国。彼女の目的と処遇をはっきりさせる必要がある。

「さて、どうしたもんですかねぇ」

 自然と耳に入って来た情報では、阿国は慶次を追い掛けて、その慶次は彼女から逃げ回っていると聞く。
一見恋の追いかけっこという図式に見えなくもないが、どうにもこうにも胡散臭い。
そもそも勧進巫女が色恋沙汰というのが、世の理に反しそうなものなのだが、相手はあの阿国だ。
一般的な概念は通用しまい。

『だがあのお嬢さんは、そこまでしつこく追い回すほど、莫迦でもない…。
 引き際弁えてなきゃ、勧進巫女なんか早々出来やしないはずだ。
 …ってことはだ。こりゃ、何か裏にありそうだね』

 左近が己の顎を擦り、頭を捻り始める。
彼の明晰な頭脳が、ちぐはぐのパズルを埋め合わせようと迅速に動き出す。
 聞き齧った事情を一つ一つ並べ合わせて、時に組み変えてを繰り返すが、なかなかこれといった結論が出ない。
それが意味することは何かといえば簡単な話だ。

「………参ったね、ネタが足りないか」

 明確な判断を下すにはまだ早いと判じた左近は、すぐに意識の向きを変えた。

「こういう時は、本人に会ってみるのが一番、ってね」

 決断した左近が城下町への道を辿り始めた頃、肝心の城下町では騒乱の火種が闊歩していた。
今現在の騒乱の火種といえば、勿論この人。
出雲の阿国、前田慶次、そしてである。

 

 

「慶次様〜」

 今日も今日とて阿国は慶次を振り回そうとしていた。
が、慶次とてこの状況を甘んじて受け入れているわけではなく、そろそろの堪忍袋の緒が切れて不思議はないと、身の危険を感じていた。
 慶次の懸念、それ即ちとの信頼関係の崩壊だ。
今までも職務を放り出して城下町で過ごしていた事はある。
だがその時と今回とでは大分勝手が違う。
異性が絡んだ上で利職務放棄となれば、勤勉なの怒りを買ったとしても不思議はないだろう。
 なんとか体よく国外へと思うが、自分が構うからこそ阿国は在留を決め込む。
この事に気がついた慶次は、数日前から、阿国から逃げ回るようになっていた。

「慶次様〜、どちらにおいでやす〜?」

 ほんわかした口調で、のろのろと城下町の中を歩き回って阿国は慶次を探し続ける。

「困ったわぁ〜、宛てがなくなってしもた」

 一つ通りを挟んだ露天の前には、静々と怒りを貯め込んでいるの姿があった。
気分転換と称し、実際は慶次と阿国の事でやきもきして、一人で町中へと降りて来てしまっていたのだ。
 二人を探してはっきりさせようと思っていたのは、最初の小半刻だけ。
見当がつけられなくなると、はあっさりと目的意識を切り替えた。
今は流れ者の老婆が営む露店で、珍しい鏡細工を前に長閑な一時を楽しんでいる。

「へぇ〜、この細工ってそんなに古いものなんですか〜」

「遡れば平安の時代まで戻るちゅうお話でして…郷土でしか作っておりませんなぁ」

「希少価値なんですねぇ」

「そのようですなぁ…京の都でも商いしましたが、見かけませんでしたなぁ」

 がっついたセールストークであれば、興味を持たない。
が、郷土自慢の色合いが強い話術にすっかり魅せられたは、嬉々としてその鏡細工を一つ、買い上げた。
大きさとしてはさほど大きいものでもない。掌にすっぽりと納まるくらいだ。
だが裏面の漆黒の台座には、丁寧な細工が施されていてそれはそれは美しい。
懇切丁寧に掘られた蓮の花を取り巻く独特の文様と、色とりどりの石の配置が巧みで、見ているだけで不思議と心安らぐ。悠久の時を経たというセールストークも、誇張表現ではないのだろうと、素直に頷ける一品だった。

『今日はいい買い物したかも』

 は着物の帯に買い上げたばかりの手鏡を挟み、意気揚々と踵を返した。
当初の目的など、とっくに忘れて、城への帰路を辿るつもりだったのだ。
 てくてくと歩を進めて最初の曲がり角に差し掛かる。
そこでばったり阿国と出会ってしまった。
正面衝突は免れたものの、相手が相手だけにの胸中には些細な緊張が走った。

「あらぁ…かいらしい御方や…」

 と目があった阿国は、の心に向きには興味はないのか、のほほんと微笑んでいる。
面識もないのだから、それも当然と言えば当然かと、は考え直した。

『……何時も一緒ってわけじゃないんだ…』

 視線だけ動かして慶次の姿を探し、いないことを確認すると、その事実だけでほんの少し安堵する。
慶次が今日も一緒に連れ立っていたとしたら、問答無用。瞬間的に怒髪天を衝いたかもしれない。
が、今日は慶次の姿は、阿国の横にはない。
たったそれだけの事実で、の心には幾分か余裕が生まれていた。
 はお義理程度の会釈を阿国に向けてすると、彼女の横を通り過ぎた。
すると阿国が唇に微笑を湛えた。

様」

 突然阿国に名を呼ばれて、反射的に振り返る。

「あら、当たりですか? 嬉しいわぁ」

「……あの…貴女って一体…?」

 阿国が優雅な立ち居振る舞いで番傘を開き、肩へと乗せる。

「うち、出雲の阿国、いいます。ずっとずっとお待ち申し上げておりましたえ?」

「え、私をですか?」

「へぇ…」

 口元に湛えた微笑を絶やさずに、阿国は膝を使い軽く屈伸する要領で相槌を打つ。
その仕草一つ一つがどれをとっても華やかで、なんだか居心地が悪かった。

『慶次さんを返せとか、寄越せとか、そういう話なのかな…? ってゆーか、これってもしかして修羅場?』

 返答に困っているの傍へとススス…と音もなく阿国は擦り寄ってくる。

「うち、様にお話しありましたんどすえ」

「どのような事でしょう? 慶次さんを寄越せとかそういうお話でしたら、断固拒否します」

 きっぱりと即答すれば、一瞬の内に口元に浮かんだ笑みが消える。
と、同時に阿国の瞳が物言いたげに細められた。
すぐに瞬きをした瞳は元々の大きさに戻り、口の端に微笑みを浮かべる。
けれども先に見せた意味有り気な所作を誤魔化せるはずもない。

「立ち話もなんです、どうどすか? お茶でも」

「…そうですね、その方がいいみたい…」

 真っ向から受けて立つとでも言わんばかりに、は阿国と連れだってかつて世話になっていた飯処が軒を構える大通りの中の茶店へと移動する。
 二人の邂逅を見てしまった民は、これはただ事では済まないと判じて、二人がいなくなると脱兎の如く駆け出した。
彼らが求めたのは勿論、前田慶次。一番の要因たる男の姿である。

 

 

「先程…仰りましたなぁ…慶次様は渡せない、と」

「はい」

 三人掛けの長い椅子に阿国のは二人だけで座っていた。
対極に陣どる二人の間には、お義理的に頼んだ手つかずのお茶と串団子が不可侵領域の証のように置いてある。
第三者が遠目から見ても、どう見てもこの構図は修羅場である。
 二人の間に迸る異様な緊張感を気取っているからだろう。
何時も人だかりの絶えない茶店が、今日に限っては、持ち帰り客にばかり特化していた。

「それは君主様としての弁でしょうなぁ? それとも……女子としての…」

「どっちもです」

 阿国独特の癖なのか、持って回ったような言い回しに、は多少なりとも苛ついていた。
打てば響くような気性のからしたら、阿国のおっとりさはわざとやっているように思えて仕方がない。
 これが常日頃の素であればいざしらず、今は一人の男を巡っての対談である。
遠まわしにネチネチと煽られているように感じられてしまうのも、無理はないのかもしれない。

「私はこの地に降り立った時からずっとずっと慶次さんに護られてきました。
 家としても慶次さんの力は必要不可欠です。
 だから渡せと言われても「そうですか。ではどうぞ」とは、諸手を振って言うことは出来ないわ」

「妬けますなぁ」

「御互い様でしょ。慶次さんは貴方を見た途端、貴方の元へすっ飛んで行ったわ。
 私の知らない慶次さんを貴方は知っていて、貴方の知らない慶次さんを私が知っている。
 ただそれだけのことじゃない。今の状況で、互いの立場に優劣なんか特にないはずよ」

 椅子に立てかけている番傘の表面を撫でながら、阿国は意味深に微笑み続ける。

「ええお返事や。女子の身で、はっきりされててとてもよろしおす。
 それに利発な御方や…益々欲しゅうなりますわ」

「それはどうも…褒められたと思っておきます。
 でもね、貴方には悪いけれど…やっぱり譲るわけにはいかないのよ」

 二人の間に、些細な沈黙が訪れた。
阿国が緩やかな動作で湯呑を取り上げてゆっくりと茶を飲む。
その動作がまた余裕綽々に見えて腹立たしくなる。
 否、本当に優位に立たれているかもしれない。
現に慶次は自分のことを放り出してまで、彼女の傍へと駆け寄ったではないか。
自分が無条件に頼るから、職を辞せなかっただけなのかもしれない。
元来自由奔放な風来坊。あの慶次を一ヶ所に留め置くのは容易ではないと、兼続だって常々言っていた。
それなのに付き合ってくれているのは、単に彼の度量が人よりも大きいから。
弱い自分がめそめそ泣いては縋って、甘えているからであって、本当は迷惑だったのかもしれない。
それを知ったこの女が、その事を言いにわざわざ出向いてきただけなのではないのか? と、良からぬ憶測ばかりが、脳裏を駆け巡った。

「あの……阿国さんは、やっぱり慶次さんの事を…?」

 は居心地の悪さをそのまま顔に乗せて、問いかけた。
本当は聞く気などなく、その必要もないと分かっていた。
だが何故か阿国には、それをさせてしまう独特の雰囲気があった。

「へぇ、お慕いしておりますえ」

 口元に運んでいた湯呑を降ろし、即答された。実に素直だ。

「…慶次様は華や。京の都でもあれほどの腕丈夫、漢っぷりのお人はおりまへんえ。
 それだけに、こない田舎で眠られとるお姿見るんは忍びないわ」

 湯呑を置いて、着物の袖から袱紗を出し口物を拭う。
仕草一つ一つが様になっていて優美だった。
自分にはない女らしい所作を自然にそこかしこに潜ませられると、落差を見せつけられたような気分になる。
の中にあった焦りは、じわじわと劣等感へと姿を変えて膨らみ始めた。

「…ド田舎で悪かったわね。だけど、それを慶次さんが選んだのよ」

 子供のような返答を受けた阿国は、しれっとした顔で袱紗を再び袖の中へとしまい、言った。

「引き止めとる方がおる、の間違いや…思いますけど?」

 二人の視線がバチバチと宙でぶつかった。

「なら、連れて帰れば? 行かないと思うけど」

 覆いかぶさって来た劣等感を撥ね退けるように、思いは強い言葉となって飛び出した。
紡いだ言葉とは裏腹に、の胸は焦りと悔しさで一杯で、じくじくと痛んでいた。
そこに押し負けてはならないと意地だけで踏ん張っているだけだ。

「自信家やわぁ」

「自信なんかないわよ。でも私は、無理に引き留めてなんかいない。
 さっきも言ったように慶次さんは私にとってもにとっても必要不可欠な人よ。
 だけどね、したくない事まで強要して縛り付けるような真似して来た覚えはないし、これからもしないわ」

「あら、まぁ」

「貴方が連れて帰りたいと言って、慶次さんがそう望むなら、引き留めやしない。
 慶次さんだけじゃなくて、他の人達だってそうよ。この地に縛り付けたりなんかはしないわ。
 それをしてるみたいに言われるのは心外だし、言いがかり以外の何物でもないのよ。お分かり?」

 詰問口調で言い放てば、阿国の口元が艶を纏いながら弧を描く。

「……ほなら……うちが出雲へ連れて行きたい言うて、色よいお返事もろたら…
 誰であろうと、連れて行ってええんどすな?」

「くどいわね、さっきからそう言ってるじゃない」

 これ以上話す事はないとばかりに、は立ち上がった。
続いて、椅子の上に小銭入れより引っ張り出した団子代を叩きつける。

「おじさん、お代ここに置くから。団子は後で城に届けてくれる?」

 胸に広がった焦りや悔しさは、怒りへと姿を変えた。
思い通りに行かねば癇癪を起こすなど、子供のようだ。
とはいえ、この怒りを諌め、昇華するのは些か難しい。
 何時如何なる時も自分のよき理解者になり、寄り添ってくれた男の傍に、突如として現れた美しく涼やかな花。
彼女に対抗しようにも、どう対抗していいのかが分からない。
美貌、女らしさ、所作、何かもかもが、向こうの方が一枚上手だ。
万が一勝てる見込みがあるとすれば、それは慶次との関係性だけだろう。
 だがその関係性とて表面的には主従のそれであればこそ、彼女に彼の事でこれ以上とやかく言えるはずがない。
その悔しさ、苦さ、何よりも慶次を失ってしまうかもしれないという恐ろしさは、そう簡単には言葉に出来ない。
 これ以上阿国と共にいると、自分の弱く浅ましい部分を引き摺り出されてしまうような気がして、仕方がない。
否、もしかしたらとっくにそうした本音を見透かされているのかもしれない。
 は阿国の視線から逃れるように背を向けた。
挨拶もそこそこに歩き出そうする。

「いい事聞きましたわ。そのお言葉、忘れんといておくれやす」

 そんなの背後で、椅子に座したままの阿国の瞳に異様な光が灯った。
それは今の今まで隠してきた彼女の本性とも言うべき光だった。

「忘れたりしないし、撤回したりもしないわよ、どうぞご自由に」

 下を向いて吐き捨てるように返答して帰路への一歩を踏み出した。
それと同時に、阿国が椅子に立てかけていた番傘をとる。

「そうさせてもらいましょ」

 彼女の言葉が終わるや否や、は後から手を引かれ、茶店の軒に強く叩きつけられた。

「〜っ!! いったいな!! いきなりなにす…」

 背中に受けた衝撃に僅かに目尻に熱いものが込み上げた。
顔を顰めて視線を上げれば、番傘がの頬を掠めて茶店の柱に突き刺さった。
ガスン!!! と重たい音が上がり、同時に風圧での黒髪が数本切れて、宙を舞った。
 椅子の上に置かれた湯呑みが跳ねて、大地へと向かい転がり落ちた。
手つかずだったお茶が乾いた大地の色を変える。

 

 

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