簒奪者の恋

 

 

「かの地において、の君主は武に秀でた将は誰一人として供にして居りませなんだ。
 前田慶次・真田幸村・雑賀孫市・島左近。腕に覚えのある者を供に付けず、あの騒動とあっては怖れて当然では?
 方々はお忘れか? かの国の君主は、女人ですぞ。我らのように武に秀でてはいらっしゃらぬ」

「む、むぅ…」

「供の者は治世の才に長ける者ばかり…となれば、策略を練り、あの場で災いを成すには些か手駒に難があろう」

「だ、だが…その為に手に覚えのある者を伏せていただけ、とも考えられるのでは?」

 食い下がった男を松永久秀の鋭い視線が真っ向から捉えた。

「かの国の配下は、前田慶次を始めとし、方々に名を馳せる者ばかり。
 例え覆面で顔を隠そうともその身のこなしは隠せるものではありますまい。
 特に明智家よりおいでになった前田利家殿の目は誤魔化しようもないでしょう」

 口調は穏やかだが、彼の目には冷徹な光が浮かびあがっていた。
視線を合わせた者は、下手を打ったことに気が付き慌てて視線を伏せた。

「お、お待ち下され!! 皆様方は前田慶次があの地に密かに来ていたと、そう仰せになるのですか!?」

 家康が口を挟めば、単純に疑問を抱いていたらしい者が言葉を返した。

「不思議はなかろう、あの風来坊がの君主についてはいやに肩入れをし、片時も傍を離れぬというではないか。
 此度だけ供をせず…とは信じ難い」

「とんでもない濡れ衣です!! 宜しいですかな、皆様方。よくよくお考え下され!
 仮に慶次が此度の騒動の為に来ていたとして、覆面などして何の意味を持ちましょうや!!
 かの者の体躯は並のものではありませぬ!! 顔を隠したとて、体躯までは誤魔化しようがございません!
 まして彼は傾奇者、素性を隠すなどその性分が納得しませぬ!!!」

 懸命に発言する家康へと、久秀の視線が向いた。
官位の差もあるから、家康としてはここは黙るしかない。
方々の口を封じた久秀は、ゆっくりと口を開いた。

「かの地には雑賀衆頭領が身を寄せている。何者かを暗殺したいのであれば、銃を用いた暗殺で事足りよう。
 ここまで大事にしなくてはならない理由はないはずだ。
 私の手にした情報では姫が国元へ帰郷した日、の関にて前田慶次・真田幸村・雑賀孫市・直江兼続・
 豊臣秀吉の姿を確認している。例え何者かが名馬・松風を駆ったとて十日の距離を二日で往復する事は出来まい」

 穏やかで理知的な口調が、彼の弁の正当性を更に強調した。
の密約を交わした者とは別の参列者達の意識が、ゆっくりではあるが、側へと確実に傾いてゆくのが、家康にもよく分かった。

「く…ぐぬぬ」

「それともあの騒ぎの中で、それを成し得たと…方々はそう仰るのか? ならば根拠を伺いたい」

「松永殿の弁は分かりましたが、根拠はそちらにもないのでは?」

 懸命の抵抗を受けた松永久秀は、見る者がぞっとするような冷笑を口元に浮かべた。

「なくは、ない」

「何?」

 手にしていた扇を腰にさして姿勢を改めた久秀は、突然上座へと向かい平伏した。

「当方、件の騒ぎにて最初に斬り伏せられた者の身柄を拘束しております。
 何分手傷を負い、日も然程経っておりませぬゆえ、この地を血で汚す事になりかねませぬ。
 そのような者を引き出したとあっては、帝のお心を著しく害する可能性もございます。
 故にこれまでは伏せておりました」

「な、なんと……」 

 久秀の言葉に周囲が大きくざわめいた。

「帝のお許しを頂けるのであれば、その者、この場へとすぐにでも差し出す所存にございます」

 一斉に場が湧きたった。
息を詰める者もちらほらと見て取れる。
大きく動揺を見せた者どもを視線の端に捉えた久秀は、身を起し腰に挟んだ扇を取り出す。
彼が扇を広げて合図をすれば、彼の配下が中庭へと何かを持って現れた。
漆塗りの盆に載せられたのは、煌びやかな帯だった。

「これはその者を拘束した時に、その者を縛っていた帯にござる。
 佐治の見立てでは、この帯によりその者の出血が止められていたとのこと。
 ところで…徳川殿、この帯に見覚えはございませぬか? 私にはあるのだが」

 献上された盆の中を見れば、確かに帯の一部が血に汚れて黒く変色していた。

「わ、我が君の物にござる!!!」

「やはりそうでしたか」

 家康が一も二もなく肯定すれば、反撃の時は今とばかりに声が上がった。
かの懇談会に出席していた者の一人のようだ。

「待て! それは供の女子が付けていたもので、の姫は…」

 だがそれすらも久秀は華麗に退けた。

「影武者ですよ、珍しくもあるまい? 
 女子の身で、見知らぬ男達の前に出るのですよ。自衛策を取っていても謗られる理由にはならぬ」

「しかし、それではあの会の意味が…」

「君主本人は来ていた。ならば決定権は、君主にあることは明白。
 影武者を用いた事実は、今この場での問題にはなんら関係はなかろう。
 もし君主の不在を議論する必要があるのであれば、明智殿を呼ばなくてはならなくなるでしょうな」

「なっ…何故…?」

 巨大軍事大国の主がもう一人来るという事態を恐れたのか、方々でどよめきが起きた。

「お忘れですかな、かの地は名代を立てた。
 影武者での君主権限について責を家に問うのであれば、まず先に不在だった者への責を問うのが道理でしょう。
 私が捕らえた者の弁によれば、先の件は明智殿が無暗に行う進軍に潰えた武家に仕えた者の逆恨みだそうだ。
 ご丁寧に血判状まで誂えての謀とか。抱かれた恨みつらみの執念を感じさせる恐ろしき話よ。
 防衛戦しか知らぬ慈愛の美姫と称されるの君主とは似ても似つかぬ。
 であればこそ、この場に必要なのはの君主ではなく、明智家の君主であると思うが?」

「まさか明智殿まで?」

「おい、冗談じゃないぞ…」

「…そのような事になったら…」

『東西の軍事大国が、天下分け目の合戦を始める火種になる!!』

 誰もがそう感じて、身の毛がよだつとばかりに息を呑んだ。
方々の懸念を察したのか、久秀は一息吐いた。

「さて」

 大げさに佇まいを改める。
それによって、ざわめいていた人々が自然と口をつぐむ。
誰も彼もが彼の言葉に着目していた。

「私は皆様方に伺いたい。どこの世界に、自ら帯を解いてまで他人を助けようとする首謀者がいるのか。
 嫁入り前の娘が帯を解いてまで木端武者の命を救おうとする……慈愛なくては出来ぬ事よ。
 このような行いを成すを、これ以上疑う理由はないと存ずるが、方々におかれてはそうではないのか?
 そうではないと仰るのであれば、明確な根拠を提示して頂きたい。
 こうしている間にも真の首謀者は安穏と逃げ延びている。そちらの方が由々しき事態と存ずるが、如何か」

「う…ううう…」

「…言われてみると…確かに……」

 ぐうの音も出なくなった者達の眼差しが宙を泳ぐ。
久秀は満足したように薄く笑い、家康を見た。

「徳川殿、失礼した。家の弁がまだあるようであれば、簡潔にお願いしたい」

「は、はあ…あ、有り難う存ずる。それではあと一つだけ…。
 重ねて申し上げます。は来歴浅く、未熟な武家ではございますが、帝を主と仰ぎ、
 世に泰平をあまねく敷く心づもりだけは、どのような武家にも劣らぬと自負しております。
 そのような当家が、世に謗りを受けるような謀を起こすことは、絶対に、絶対にありませぬ。
 此度の騒動にて害を受けた方々には心よりお見舞い申し上げまする」

「もうよいか?」

「はい…の主張は以上です」

 このように松永久秀は事あるごとに、家の後衛に立ち、異を唱える者を黙らせ続けた。
詮議は松永久秀の登場で空気が一変した。誰しもが彼が家の背後に立っていることに気が付き、彼と事を構える事を恐れて掌を返さざるえなくなったからだ。
本来ならば感謝してもしきれないところだ。
だが問題は、今こうして自分の眼前で穏やかに微笑み佇んでいる男―――――松永久秀の存在自体である。
 詮議を終えて、がらんどうとなった室の中で彼らは二人だけで対峙していた。
上座に松永久秀は立ち、下座に家康が座している。
対峙とは言ったものの、この図式ではどちらに主導権があるのかは明白だ。

「あ……な、なんと、仰せでございますか? 松永殿」

「…先の件での礼は宜しい。当然のことをしたまでの事」

「は、はぁ…」

「それよりも、私は殿と見合いがしたい、そう申し上げた。不服ですかな?」

「あ、い、いえ……いや…そ、そのような事は…」

 正に寝耳に水。驚天動地とはこのことだ。
常々の後ろ盾になるような行動ばかり見せて来た男だ。
何らかの意図が潜んでいて不思議はないと心の準備はしていたのだ。
だがまさか、彼の行動理念の裏にあったものが婚姻であったとは、誰が想像できようか。

「し、しかし…しかしですな、松永殿。
 こう申し上げてはなんですが、松永殿のご側室になるには、当家の姫はいささか荷が過ぎるかと…」

 額に浮いた汗を拭い、懸命に言葉を探す家康に、松永久秀は侮蔑にも似た視線を向けた。

「徳川殿、勘違いして貰っては困る」

「は、はぃ…調略という事は重々承知しております。が…その…当家の姫は…」

「そうではない。誰が側室にしたいと申し出た?」

「え…?」

 下げていた顔をほんの少し上げれば、久秀は遠くを見つめていた。
彼の視線の先にはあるのは、紛れもなく領だ。

「私は、殿を奥方にしたいと、そう願っている」

「め、滅相もございません!!! 家柄が違い過ぎまする!!!」

 家康が頭を下げて懸命に食い下がった。
が、久秀は少しも動じない。

「気にする必要はない。姫君と私の差を埋める為に必要な官位や名声、雑事は全てこちらで片付ける。
 さりとて時が流れれば立場は逆転するというのに…なんとも世の習わしとは面倒な事だ」

「…あ…は、はぁ…?」

『な…なんということだ……この者、朝廷まで意のままに出来るというのか?』

 言葉に詰まる家康の耳を久秀の独白が掠めた。

「…いい加減、貴公らには任せおけぬ。我が君はこれより我が手で保護する…」

「…は?」

「いや、なんでもない。先に申し上げた通り、雑事はこちらで済ます。
 貴公は姫君に我が真心のみをお伝え頂きたい」

「は…はぁ…」

「よろしく、頼みましたぞ。徳川殿」

 最後に見た松永久秀の眼差しには、否を唱える事を許さぬ強い光を讃えていた。

『何故か? …どういう事なのか? あの者の、あの眼差し…』

 久秀がいなくなった後、一人残された室の中。
家康は珍しくたたずまいを崩し、肩で息を吐いた。

『あれは、欲でする目ではない…。あれは……三成らと同じ目だ。
 だがどうしてだ? 彼の目は、昨日今日の恋心でするような目ではなかった。
 …もっともっと深く、重い……長きに渡るものだ。
 様との面識は、先の一度きりであるはず……では何故、彼はあのような目を…?』

 こくりと喉を鳴らす。
溢れて来る汗を懸命に拭いとるが、汗は次から次へと流れ落ちた。
 家の中にあってに懸想している者は多い。
中でも一番余裕をなくし、狂っているとすれば、それは石田三成だ。
不器用な彼は、思いこんだらてこでも曲げられない。
彼の純真な想いはひたむきに、ただ一心にへと向いている。
慶次、左近、孫市、幸村、彼らとて方法や思考こそ違えど、根本は同じだ。
の為ならば、命すら容易に投げ捨てるに違いない。

『だが……あの男は違う……三成や他の者以上に……様に狂っておる…』

 脳裏に浮かんだ同僚達がの為なら「火の中、水の中」と豪語するというのならば、松永久秀は既にその先の修羅の世界すら凌駕したとでもいうような眼差しを見せた。

『…あやつ、一体何者なのか…? そもそも…様を"我が君"と…そう呼びはしなかったか…?』

 家康は松永久秀がいた上座を見上げ、混乱する意識を懸命に正そうと試みた。
評定の後、用事があると呼び出されて、簡潔に求婚の意志を表明された。
話していた時間は小半刻にも満たない。
だがその間に交わした言葉の中に、重大な謎が多く潜んでいた事に改めて気がつく。

 

 

「立花ァ千代?」

「はぁ…毛利殿の配下であったのですが、先の戦いにおいて、当家でお預かりしておりまして…。
 毛利は松永殿の配下になり、立花ァ千代はその毛利の配下。いわば陪臣の身でござる。
 御返しせねばならないと分かってはいるのですが、妙令の女子同士、気が合った様子でして…その…」

「構わぬ」

「は?」

「構う事はない。殿が欲しているのであれば、いかようにもされるがよい」

「よろしいのでございますか?」

「無論だ。毛利も堪え性なく当家を出た今、義理立てされる謂われはない。何よりも…」

「…はぁ…」

 「陪臣の力など松永家には必要ない」といわれるのであれば、まだ良かった。
だが彼はこう言ったのだ。

「後に殿の下へと天は還る。私の下に戻ろうと、殿の下に残ろうと形は変わらぬ。
 いや…直属となるのであれば、立花家にとっては躍進となるな。めでたいことだ」

 

 

 あの瞬間は、何を言われているのかよく分からなかった。
だが改めて考えてみれば、良く分かることがある。
 彼は独白した時、の事を"我が君"と呼んだ。
そして"後に天は殿の下へと還る"とも断言した。

『あやつは、何を、知っている? 一体、何者なのか!?』

 家康の腕が今度こそ大きく震えた。

『あやつも儂や秀吉殿や信玄殿と同じだとでも言うのか?
 そんなはずがあろうか、あやつは主家に弓引いた簒奪者ぞ!?』

 事態を重く見た家康は、その日の内にには内密にして信玄と秀吉の下へと書状を送った。
今度ばかりは呑気に構えてはいられない。
朝廷を動かし、将軍家さえも脅かす男―――――松永久秀。
彼がに懸想し、その身を欲した。
となれば、それを拒絶するには毛利・北条との千日戦争を上回る戦になることは必至だ。到底穏便に済むはずがない。
それを回避しの身を護るには、猶予はあまりにも短い。
家はもう手段は選んではいられないのかもしれない。

 

 

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