簒奪者の恋

 

 

「…この方は…?」

 もっと良く見ようと少年が身を乗り出すと、女性の姿が拡大された。
この世界の未来を彼のように知り、心を痛めているのだろう。横顔は憂いに満ちている。
 祈るように腹部の前で組み合わされた指先。
絶望に耐え忍ぶように懸命に唇を噛みしめている。

『無理だ…こんなにひどいことを…人の力では…一人の力では…どうにもできない…』

 少年の気持ちと同じなのか、女性は苦しげに顔を歪め、時に面差しに絶望を刻む。
けれども彼女は、すぐに首を横にふり、顔を上げた。

『どうして…? どうして貴方は顔を上げるの? こんな世界なのに…どうしてあきらめないの? 』

 天を仰いだ横顔は凛とし、眼差しには理知的な光が宿る。
孤独な戦い―――――先の見えぬ、悲しい戦いだと思った。
彼女だってそれは知っているはず。
 けれども彼女は決して諦めようとはしない。
道を探し、開ける未来を信じ、何かを探し求めるように真っ直ぐに遠くを見つめ続けている。
その瞳に、憂いと共に、慈愛の光が満ち溢れていた。

『あきらめては…いけない………あきらめさえしなければ…道は…まだあると…?
 士であればこうあれと……貴方は私に、そう言うの?』

 少年は物言わぬ名も知らぬ女性の姿から学びとったかのように小さく一つ頷いた。
彼の眼差しが変わったのを見取ったCube-Aが彼の耳元にすり寄って来て囁く。

「…これからそう遠くない未来、この方はこの世を治めるべく、降臨します」

「しょうぐん様が天下を治めておいでなのに? この方が、しょうぐん様をはいするというのですか?
 そんなことをしては、世が乱れてしまいます!」

「いいえ、そうではない。今この世界のありようが、既に乱れているのです。
 それを正す為、彼女が天から遣わされるのです」

『…そうなのかもしれない……世を治める方はいるのに……色んなところで争いが起きている…。
 それは…たしかに間違っていることだ…』

「…天から…遣わされる……この方が…」

「その通りです、数多の命に安らぎを与える為、彼女はやってくる」

『この人が、救ってくれる……皆を…幸せに……。
 きっと、そうなんだろう…。だってこの人は……とてもとても優しい眼をしている…。
 だけど……とても悲しい人だ……こんなひどい世界で…独りぼっちで…がんばっているなんて…』

 言葉と裏腹に、少年の小さな掌は大地から離れて伸びた。
繋がることのない掌が、女性の温もりを求めて宙を彷徨う。

「帝を廃し、討幕を企てる事は確かに騒乱の元になるのかもしれません。
 ですがそれは大事の前の小事でしかありません。
 今天下を治める者では、この世界を救う事は出来ない。
 元よりかの者達にそれが出来たならば、彼女の存在自体、必要とされません」

「でも…だけど…やはり…そのような事、許されるはずがありません…」

「だとしてもこの未来を回避する為だけに、彼女はこの世界にやってきます」

「私欲は、この方には一切ないというのですか?」

「その通りです」

『…そうなんだろう……だって、この方はとてもきれいだ……とても……とてもきれいな人だ……』

「………このように乱れた……間違った世界へ……この方は…皆のためだけに……やってくる」

「その通りです。この方こそが、万物全てに平穏を与えるお方。他に、方法は残されていません」

「…最後の希望…? この方が? 私達を救って下さる方…」

 疑う余地は山とあるはずなのに、映し出された憂いのある横顔が、慈愛に満ちた眼差しが、その疑念を霞ませた。

「とはいえ、貴方が言うようにこのお方の道は苦難の連続……常に命を脅かされています」

「そんな…!」

 こんなに苦しい戦いをしているのに、未来を救う為に現れるのに、それでも邪魔をする者がいるというのか。
どうして分からない? 今の平穏は長くは続かない。彼女でなければ、遠い遠い未来の惨状は覆せないというのに、一時の安寧に縋りつき、彼女の道を阻もうとする者がこの世にいるといのうか。
今が良ければ、先の事はどうでも良いと、そういうのか。先を知り、こうして一人で耐え忍んでいる人がいるというのに、その方の苦労も、苦難も、意には介さないというのか。
私欲ではない。全ては、荒廃した世界の為の取り組みだというのに、それを国を統べる者でさえ理解しようとはしないのか。

「…ひどすぎる……そんなのは……ごうまんだ」

 悲しみと共に言い知れぬ怒りが込み上げた。
少年の穏やかだった眉がきつくより、敵を探すように眼差しにはギラギラとした闘志に満ちて行く。
 Cube-Aが映像を打ち消し、少年の前へと進み出て来た。

「ですから、私は貴方に救いを求めるのです」

「私に? 確かに、私の父は武士。お役にたてるかもしれません、でも…」

「いいえ、お父上ではありません。貴方の力こそが必要なのです。
 私が力をお貸しします。この方の為に、貴方の力を貸して下さい」

「私に、何をしろと仰せなのですか?」

 これは天意なのか、それとも悪魔の囁きなのか、幼い彼にはまだ判断する事が出来なかった。
何かとてつもないことに巻きまれているのではないかという懸念よりも、少年にとってはもっと重大だった事がある。
それは映し出された女性が消える寸前の事。
瞬きをした彼女の頬に、一筋の滴が伝ったということ。

「貴方に私の持てる全ての能力をお貸ししましょう。ですから貴方には…地盤を築いて頂きたい」

「じ…ばん?」

「彼女の為の神聖なる国です」

「私に出来るでしょうか?」

「必ず、出来ます。その為に、私が貴方の参謀となります。力を貸して下さい。
 彼女が頼れる者は、もう貴方以外にいないのです」

 気丈なあの女性が人知れずに流した涙、それに少年は完全に心を奪われていた。

「……私が……お役にたてる……あの方の…? 
 あなたは、わたしにあの方の臣になれと…そういうのですね?」

「肯定します。彼女の名は。そう遠くない未来、この世界を救う為に降臨します」

「あなたは、一体……? 何者なのですか? 私の何を知っているの?」

「全て、存じています。その上で願うのです。松永弾正久秀。かの方の為、貴方の全てを差し出して頂きたい」

 

 

 久方ぶりに懐かしい夢を見た。
床の上に起き上がった松永久秀は、額に掛る前髪を手で払いのけた。

「…ふぅ……長かったな…」

 夢の余韻が冷めやらぬのか、彼は深く長い息を吐く。
Atomic Industry omega.と名乗った真紅のからくりとの出会いが、彼の定めを変えた。
彼はからくりが導くまま、主家に弓引き、将軍家すら脅かし、"天下に最も近い男"と呼ばれるようにまでなった。
優に三十三年掛けた大計であった。
 だが彼にとっては、天下など、人の口にする評判などはどうでも良かった。
彼にとって一番大切だったのは、真紅のからくりと初めて出会ったあの瞬間から、何も、何一つ変わりはしない。
 。かの人の憂いある横顔。
あの顔が何時如何なる時も脳裏に焼き付いて離れない。
慈愛の眼差しを持つ美しい人だった。
聡明な顔立ちをした人だった。
 その彼女が、苦しんでいた。
何かに脅かされ、泣いていた。
それが、辛い。彼女の嘆きが耐え難い。

「人は私を"簒奪者"と呼ぶ。"天下人"とも……。だがそんな事は大事の前の小事に過ぎぬ。
 なんでもよいのだ、呼び名など。大切な事はかの方をお救いし、御守りせねばならないということ。それだけだ」

 胸の上で手を強く握り締めて、息を吐く。
それは呻きにも似た独白だ。

「……どうか……どうか……心お健やかに……我が君…」

 彼の背後にCube-Aが現れ、音もなく寄って来て蠢く。

「あの方の、今を」

 小さく命じれば、Cube-Aがバチバチと音を立てて、彼の部屋の白壁にの姿を映し出す。
病に臥せっているのか、苦しげに顔を歪める姿。
彼女の両の手を握り、懸命に声をかけるのは、猿のような男と、狸のような男。
音は聞こえない。ただ懸命に二人が呼び掛けていることだけはよく分かる。

「…ふがいない私をお許し下さい、我が君……必ずや、お救い致します……」

 自身が鞭打たれたかのような苦渋を横顔に刻み、彼は立ち上がる。
夜着を脱ぎ棄て、身支度を整える。
 身支度を整え終えた彼が、白壁の前へと進み出て膝をついた。
緩やかな動作で頭を垂れる。

「我が君。必ず、この松永久秀が、貴方様へ天下を献上致します。
 それまでの御辛抱でございます。どうかどうか、今しばらくの御猶予を…」

 幼き日、出会った時より見守って来た儀式にも似た行為を、Cube-Aは音もなく見下ろす。
彼の力を利用し、必要な物は全て揃えた。
地盤、家名、名声、財力、軍事力。
今の松永久秀の手に入らぬものなどは何一つない。
唯一つ、この白壁に映し出される真のマスターの心を除いて。
 けれども真紅のからくりが知る歴史の先に、松永久秀の名は存在しない。
ということは、この男もどこかで排除しなくてはならない。
それが何時なのかは分からない。
だがの禄を食む英傑達がそれは勝手に成しえてくれることだろう。
 自分に課せられた使命は、"を護ること"であり、"天下を彼女のものにすること"だ。
人の心など知った事ではない。
使える者は全て使い尽くす。
迅速に天をの腕に抱かせるためならば、手段など選びはしない。
それが自身を生みだした世界全体の遺志だ。
 Cube-Aは出会ったあの日より一日たりとも欠かさずに紡いだ言葉を、久秀の耳元で今日もそっと囁いた。

「貴方の尽力を知れば、きっとかの方は御喜びになられましょう」

「…ああ…それこそが、私の悲願だ…」

「そうです、心を強く持ちなさい。かの方が頼り、信頼できるのは、貴方をおいて他にはいない。
 貴方を拒絶するのは、彼女の傍で何者かがそう仕向けているにすぎないのです」

「…分かっている…私が全てを成し遂げる…天下を…安らぎを、かの方の掌中へ」

 白壁の中に映るに対し深く一礼した後、松永久秀が室を出る。
Cube-Aは白壁に映し出した映像を消し、息を潜めるように闇の中へと姿を隠した。

 

 

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善意が引き起こした狂気が、今、始まる。(19.12.24.)