簒奪者の恋 |
「…この方は…?」 もっと良く見ようと少年が身を乗り出すと、女性の姿が拡大された。 『無理だ…こんなにひどいことを…人の力では…一人の力では…どうにもできない…』
少年の気持ちと同じなのか、女性は苦しげに顔を歪め、時に面差しに絶望を刻む。 『どうして…? どうして貴方は顔を上げるの? こんな世界なのに…どうしてあきらめないの? 』 天を仰いだ横顔は凛とし、眼差しには理知的な光が宿る。
『あきらめては…いけない………あきらめさえしなければ…道は…まだあると…?
少年は物言わぬ名も知らぬ女性の姿から学びとったかのように小さく一つ頷いた。 「…これからそう遠くない未来、この方はこの世を治めるべく、降臨します」
「しょうぐん様が天下を治めておいでなのに? この方が、しょうぐん様をはいするというのですか? 「いいえ、そうではない。今この世界のありようが、既に乱れているのです。
『…そうなのかもしれない……世を治める方はいるのに……色んなところで争いが起きている…。 「…天から…遣わされる……この方が…」 「その通りです、数多の命に安らぎを与える為、彼女はやってくる」 『この人が、救ってくれる……皆を…幸せに……。 言葉と裏腹に、少年の小さな掌は大地から離れて伸びた。 「帝を廃し、討幕を企てる事は確かに騒乱の元になるのかもしれません。 「でも…だけど…やはり…そのような事、許されるはずがありません…」 「だとしてもこの未来を回避する為だけに、彼女はこの世界にやってきます」 「私欲は、この方には一切ないというのですか?」 「その通りです」 『…そうなんだろう……だって、この方はとてもきれいだ……とても……とてもきれいな人だ……』 「………このように乱れた……間違った世界へ……この方は…皆のためだけに……やってくる」 「その通りです。この方こそが、万物全てに平穏を与えるお方。他に、方法は残されていません」 「…最後の希望…? この方が? 私達を救って下さる方…」 疑う余地は山とあるはずなのに、映し出された憂いのある横顔が、慈愛に満ちた眼差しが、その疑念を霞ませた。 「とはいえ、貴方が言うようにこのお方の道は苦難の連続……常に命を脅かされています」 「そんな…!」
こんなに苦しい戦いをしているのに、未来を救う為に現れるのに、それでも邪魔をする者がいるというのか。 「…ひどすぎる……そんなのは……ごうまんだ」 悲しみと共に言い知れぬ怒りが込み上げた。 「ですから、私は貴方に救いを求めるのです」 「私に? 確かに、私の父は武士。お役にたてるかもしれません、でも…」 「いいえ、お父上ではありません。貴方の力こそが必要なのです。 「私に、何をしろと仰せなのですか?」
これは天意なのか、それとも悪魔の囁きなのか、幼い彼にはまだ判断する事が出来なかった。 「貴方に私の持てる全ての能力をお貸ししましょう。ですから貴方には…地盤を築いて頂きたい」 「じ…ばん?」 「彼女の為の神聖なる国です」 「私に出来るでしょうか?」
「必ず、出来ます。その為に、私が貴方の参謀となります。力を貸して下さい。 気丈なあの女性が人知れずに流した涙、それに少年は完全に心を奪われていた。 「……私が……お役にたてる……あの方の…? 「肯定します。彼女の名は。そう遠くない未来、この世界を救う為に降臨します」 「あなたは、一体……? 何者なのですか? 私の何を知っているの?」 「全て、存じています。その上で願うのです。松永弾正久秀。かの方の為、貴方の全てを差し出して頂きたい」
久方ぶりに懐かしい夢を見た。 「…ふぅ……長かったな…」 夢の余韻が冷めやらぬのか、彼は深く長い息を吐く。
「人は私を"簒奪者"と呼ぶ。"天下人"とも……。だがそんな事は大事の前の小事に過ぎぬ。 胸の上で手を強く握り締めて、息を吐く。 「……どうか……どうか……心お健やかに……我が君…」 彼の背後にCube-Aが現れ、音もなく寄って来て蠢く。 「あの方の、今を」 小さく命じれば、Cube-Aがバチバチと音を立てて、彼の部屋の白壁にの姿を映し出す。 「…ふがいない私をお許し下さい、我が君……必ずや、お救い致します……」 自身が鞭打たれたかのような苦渋を横顔に刻み、彼は立ち上がる。 「我が君。必ず、この松永久秀が、貴方様へ天下を献上致します。
幼き日、出会った時より見守って来た儀式にも似た行為を、Cube-Aは音もなく見下ろす。 「貴方の尽力を知れば、きっとかの方は御喜びになられましょう」 「…ああ…それこそが、私の悲願だ…」
「そうです、心を強く持ちなさい。かの方が頼り、信頼できるのは、貴方をおいて他にはいない。 「…分かっている…私が全てを成し遂げる…天下を…安らぎを、かの方の掌中へ」 白壁の中に映るに対し深く一礼した後、松永久秀が室を出る。
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善意が引き起こした狂気が、今、始まる。(19.12.24.) |