「あ、貴方が悪いのよ」
上擦りかける声を必死に抑え、不自然にならぬようにと細心の注意を払う。
ちらちらと上目使いで見やれば、男は困ったような、慌てたような様子でその場に跪いた。
「…申し訳ない…気に障られましたか?」
「当然でしょう。いい? よく考えて」
「はっ」
「貴方が迎えに来ないから、私はこの者達に頼るしかなった。
貴方がもっと早く私の元に現れれば、私はこんなに苦労することもなかったのよ」
咎めるような言葉とは裏腹に、声に微弱な揺れが含まれていた。
じんわりと背には冷や汗が湧き上がる。
視線を上げれば、死者の群れが山をなす戦場のど真ん中。
の名を冠した旗は大地に横たわり、土砂と血で薄汚れている。
信を置き、共に過ごしてきた将兵には縛が打たれ、皆大地に膝をついている。
「さん、よせ!」
慶次の声が上がり、は息を飲む。
そうだ、ことの結末は何時も同じ。変わることがない。
彼の機嫌を損ねてはならない。損ねたら最後、ここにいる皆は死ぬことになる。
「貴方は私を恩知らずにするつもりなの?」
「いえ、そのようなことは…」
「なら、皆を放しなさい」
跪いていた男がゆっくりと顔を上げた。顔は霞がかっていて、よく見えない。
影のような靄のようなものが彼には常にまとわりついていて、不穏な影にしか見えない。
なのに視線を感じる。それも強く鋭い怜悧な視線だ。
男の視線は、が口にする言葉の中に潜む真理を見定めようとしている。 それがにも分かるから、焦りは募った。
「我が君…?」
は喉を鳴らし、高鳴る鼓動を抑えた。
気取られてはならない。恐れも、嫌悪も、困惑も。 今はただただ、捕縛された皆の為、演じ切らねばならない。彼が望む、その役を。
はゆっくりと掌を眼前の男へと差し出した。
「私の臣だと言ったのは、嘘なの? 貴方のことだけは信じていたのに…」
「いえ、滅相もない。ただ…私は不安なのです。
貴方様は誰に対してもお優しい。それ故、良からぬ思いを抱く者が、すり寄ろうとする。
この者らとて例外ではございません。貴方が彼らに何か好からぬことを吹き込まれ、
惑わされているのではないかと…私は貴方の事が何よりも心配なのです」
「止めなさい」
「我が君?」
「お前の主は誰? 答えなさい」
「我が主は、貴方様ただお一人」
「その私が、彼らを放せと命じたの」
「しかし…」
表情は見えないのに、男の眉頭に皺が寄ったのが分かった。
彼の全身に言い知れぬ憎悪を見たは焦る。
「ねぇ」
「はい」
「私の傍へ」
その一言で、靄のかかった男のまとう気配が変わった。穏やかになった。
影は熱に浮かされたような眼差しで、の心の向きを探るようにまっすぐに見つめて来る。
その視線の中に、不思議と幼さを見出し、一方で邪険にするにはあまりにも危険な何かを感じた。
「さん!!」
それを感じたのは見守っていた将兵も同じだったようだ。
慶次が思わず腰を浮かせた。
すぐに十数名の僧兵が揮う鉾で首根っこを押さえつけられて大地へと突っ伏す。
「慶次さっ!」
心配そうに顔色を変えて、視線をやれば、膝元に傅いていた影の纏う空気が変わった。
「…我が君は、どうやら御心安らかになれぬようだ。
煩わせるべき災禍は、迅速に摘み取るに限る」
立ち上がった影が掌を翳した。
あの掌が振り下ろされる瞬間―――――皆の首が落とされる。
その結末だけは回避しなくてはならない。
は叫んだ。
「止めなさい! こちらへ来て!」
「はい」
影の奥に光る眼差しは冷淡で、彼がを主と仰いでいる事実が信じられない。
その証拠に、彼は今度は傅かない。
の心を試すように、微動だにせずに見つめ続けるだけだ。
「止めろ!!! !! 屈するな!!!」
「様、我らは耐えられます!!」
三成、幸村と続いて声を発するも、にはもうよく分かっていた。
他に、選択肢などは存在しないという事が。
「あ…その……傍へ…」
両の瞼を閉じる。
震える指先が、影に纏いつかれた男の、白い束帯の袖を掴む。
彼は余裕をたっぷり含ませた仕草での前へと立った。 純白の束帯の裾がふわりふわりと揺れる。
男の指先がの頬にゆっくりと落ちて来る。
「泣いておられるのか? この者らの為に?」
「……いいえ、貴方に触れられる事が、嬉しいの……待ち、望んで……ずっと、ずっと…待っていた事だから…」
心にもない睦言を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
がっつくこともなく、靄を纏った男の体が傾く。
顎に触れていた指先が肩に触れ、腕を伝い、掌に絡んだ。
それと同時に、の唇へ影の唇が触れる。
は最愛の男の目の前で、彼の命を護るべく、他の男に自ら操を差し出した。
「いやぁぁぁ!!!」
悲鳴と共に飛び起きて、肩で息を吐けば、背筋に言いようのない嫌悪が貼り付いた。
「どうした? さん」
慶次が室の外から声をかける。
「なんでも…ない……平気だから……なんでもないよ、ちょっと怖い夢見ただけ…」
そう言って誤魔化そうとすればするほど、見た夢は生々しさを増しての心を詰った。
涙が溢れ、悲しさが、苦しさが止まらない。
己の体を抱え込み、布団の中へと潜り込む。
そして何度となく己の唇を拭った。
夢であるはずなのに、いやに生々しい。
「うっ…ううぅ…」
ここ連日、ずっとずっと同じような夢ばかりを見ている。
選択肢を違えれば、全ての家臣が死を受ける。
ある夜は三成が彼の憎悪を一身に受けた。
彼の利き腕の爪が一枚一枚剥がされ、間接ごとに斬り落とされ続けた。
秀麗な彼をいたぶるかのごとく、絶命するまで影は周到に責め苦を与え続けた。
またある時は、幸村が縛された状態のまま、腹部を割かれた。彼の腹から引きちぎられた臓腑の生々しさを、目覚めた後もずっとずっと覚えている。
またある時は、孫市が仕込み銃で影の額を僅かに脅かすも、何かに阻害されて銃殺された。
またある時は、全身に手傷を負いながらも慶次が暴れ狂い、血塗れになりながら多くの将兵を巻き込んで絶命した。
彼の死骸を五体満足にしておくと起きてきそうだと恐れた兵達は、が泣き叫び「止めて」と希っても耳を貸す事はなかった。むしろ慶次の死を明確にするかのように、の眼前へ、切り落としたばかりの慶次の首を差し出した。
それを眺め続けなければならない恐怖。
自分には何も出来ないという無力感に、は例え夢であっても苛まれ続けた。
あの影はの心を、体を望んだ。
他には何も欲してはいなかった。
皆を護れるのであれば、それしか方法がないのであれば、我が身を差し出す事に悔いはない。
ただ、悲しかったのは、苦しかったのは、あの影は、その瞬間を彼らに見せるように仕向けたことだ。
「……どうして……こんな酷い夢を見るの…? どうして? なんでなの?」
襖一枚隔てた室の向こう側で、が何か深い痛みに耐えていることは、護衛として傍にいることの多い慶次でなくとも気が付いていた。 の表情からは日に日に朗らかさが消えて、代わりに脅えを貼り付けるようになる。
その怯えはついにある夜、一線を越えさせた。
三成の話では、夜勤中に突然夜着のまま執務室に飛び込んできたかと思えば、利き手を見せろと迫られたという。
夜着一枚で家臣ににじり寄る姿に彼がいい顔をするはずもなく、すぐに説教が始まるものと居合わせた全ての人々が身構えたが、そうはならなかった。
あまりにもが切羽詰った様子を見せるものだから、三成が気圧されして素直に従ったのだ。
差し出された指先を心配そうに撫で回し、傷一つないことを悟ったは、緊張の糸が切れたようにその場に座り込むと、突如として泣きだした。
こうなっては説教も何もあったものではなく、三成は疑問符の浮かんだ顔のまま固まるしかない。
見兼ねた左近が室へとを送り、その日は事なきを得たが、それだけでは騒動は済まなかった。
三成の次にの錯乱を見たのは幸村だ。
彼もまた、突然にしがみつかれて、「腹を見せろ」と迫られた。
古傷の治療痕はあれど、それ以外は何の変哲もない。
年齢にそぐわぬ鍛え上げられた腹筋がそこにはあるだけだ。
それに安堵したのか、はずるずるとその場へと腰を落として、疲れ果てたような溜息を吐いた。
孫市とて例外なく、風呂上りに頭に手拭いを引っかけて濡れた頭髪を乾かしていた所、「額の傷を見せろ」と鬼気迫られたという。
極めつけは慶次だ。
彼は熟睡している所に飛び込んで来られて、首を撫でまわされて「繋がってるよね、ちゃんと、繋がってるよね?!」と問われたのだという。
悲壮感漂う表情で迫られてでもいなかったら、誰しもが、何かしら託けて手を出したくなるような状況だ。
唯一標的にされなかった左近は面白くないようだが、の様子を見ていると、そのような事で嫉妬していいものかどうか、悩ましいところだ。
「ねぇ、知ってる? 姫様、最近眠りが浅いみたいよ」
「昔みたいに様が一緒なら、少しは御心も安らぐんじゃ…」
「しっ!! 来たわよ」
身支度の任を仰せつかっている女中達が、とある一団を視認して申し合わせたように口を噤んだ。
彼女達の視線の先には、葵の紋を縫い止めた着物に身を包む青の一団がいた。
中央をせかせかと歩くのは、お梶の方である。
女中達は次々に廊下の隅に膝をついて、平伏した。
一団をやり過ごすまでの間、城の回廊には、家風にそぐわぬ緊張と沈黙が舞い降りた。
「……全く、面倒な人が居座ってるわよね…」
「いくら計算が出来ても、あの高飛車な態度、どうにかならないの?」
「本当、様がいてくれた時の方が気楽で良かったわ」
お梶が立ち去るまでは、嵐をやり過ごそうとでもするかのように女中衆は平伏し、沈黙をまもる。
いなくなればいなくなったで、彼女らは仕事に戻りながら口々に悪態を吐く。
「徳川様も随分と女を見る目がないわよね」
「そうじゃないんじゃない?」
「どういう事よ?」
「ほら、お人が好い方じゃない。騙されてんのかもよ?」
「あんな小娘に?」
「だからよ。ああ言う女は、えてして猫かぶるの巧いものよ。
でなきゃあんなに側室が多い徳川家で、あの子だけが城に呼ばれるはずないじゃない」
「それは…一理あるかも」
「でしょ? でなきゃ誰があんな女…」
「シッ、親衛隊がまた来たわよ」
「くわばら、くわばら」
徳川家康が愛でた利発な側室の経済観念は、城の為になるとは言え、現場を取り仕切る女中達にとっては厳しすぎる締め付け以外のなにものでもなかった。
打ち出している方針はとあまり変わらないのだが、人柄の違いがその事実を霞ませた。
が日向に咲くタンポポのように朗らかでとっつき易い人物であったとするならば、お梶の方は月夜の下でほのかに光り輝く白百合のような娘だった。
またには取り巻きらしい取り巻きはいない。忍びの妻であれば目視できる場所に護衛がいないのは至極当然なのだが、の人柄が、時として人々に彼女が伊賀忍頭領・服部半蔵の愛妻である事を忘れさせた。
一方お梶には、徳川の禄を食む家系の子女で形成された鉄壁の親衛隊が常に侍っていた。
それが一女中達にとっては、頑なな距離を示されているように思えてならなかったのだ。
『…なんとでも言うがいい…下賤の者どものが…』
お梶の方は、年こそ若いが頭の回転は速い。
故に自分が城の中でどのような目で見られているのかを知っている。
けれども彼女は挫ける事を知らず、彼女の気高い自尊心がそれをよしとはしなかった。
少しでも気弱な素振りを見せていれば、周囲の反応も違ったはずなのだが、一度失ってしまったきっかけは、そう易々と訪れるものではない。
まして今のお梶には、勝ち馬に乗るがの如く、強い追い風が吹いていた。
『あのような者達の振る舞いも、わらわが様に一目置かれるまでのものじゃ!
わらわは必ず、必ず、責務を全うしてみせる』
険しい顔でお梶の方は回廊を進み、彼女の後方には青の一団が続く。
を告発したことで奥向き総取締役の代理職までもを担うようになったお梶にとっては、怖れるものは何もない。
ただ忠実に忠義を尽くし、覚えめでたくの後釜をさらうだけだ。
幼い姫には世の情勢よりも、今はに一時でも早く近づき、自分を覚えてもらう事。
それだけが重要で、他の事は何一つ考えられなかった。
静々と入り始めた家中を揺るがしかねない亀裂の存在に、一体誰が気が付けていただろう。
戦こそないが、否、戦になっていないからこそ、誰しもが気が付けなかっただけなのかもしれない。
この亀裂は、残念なことに、城の中にあって執務に追われ続けている人々の目には、明確な形をもって見えるようなものではなかった。
内政を預かる重臣は毛利決戦の戦後処理に続いて、疑惑が晴れた直後から持ち込まれた数々の外交調整の為に奔走せねばならなかった。そこには家の背後に松永久秀の影を感じ取った他勢力からの探りであったり、媚びであったりと、数多の思惑が潜んでいて、面倒な事この上ないが、邪険にも出来ないという経緯が潜んでいた。
折しも外交に力を発揮する家康は、引き金となった京の都へ出向いている。
ようやく帰省がかなうと文を認めてはきたが、領地の再建すら済んでいないのに、京の都へ行くともなれば、無駄に旅費がかかった事は言うまでもなく、当面国庫のやりくりに忙殺されるに違いない。
松永久秀は三成、家康が示唆したように、深入りしたくない相手である。
その相手に恩をこれ以上受けるわけにはゆかず、かといって返す方法もこれといって持ち合わせてはいない。
抗おうにも相手は天下に一番近い男と称される双頭の片割れだ。
そんな男を相手に、全面戦争を起こせるだけの力は、今の家にはない。だからこそ輪をかけて面倒なのだ。
豊臣秀吉・竹中半兵衛を始めとした重臣の調略能力は、一心にそちらへと向いていた。
家中に忍び寄る影にまで、目を向けるような余裕を持ち合せていられるはずがない。
一方で石田三成を始めとしたと距離を密に置く重臣達は、彼女の体の調子がすこぶる悪いことに気がかかりきりで、他の事にまで頓着している余裕はない。
人の感情の機微に敏い慶次、左近、孫市はなんとかお梶の方と、の間のこじれた関係を解すきっかけを見出す事は出来ないかと思考錯誤しているものの、片方が完全拒否の姿勢を崩さないため、暗礁に乗り上げている。
一見繋がりのなさそうな一つ一つの問題が一つの条件・思惑の下に繋がりを持っていたのだと彼らが気が付くにはまだ時間が足りない。
全てが何者かの意志により形成された出来事であると露見するのは、悪夢に魘されるの肉体と精神が限界を迎えて、ついに床に臥せり、深い深い眠りに落ちるようになってから二週間もした頃のこと。
任されていた領での再建案と復興にめどをつけた兼続がその報告に城へと戻って来た時に露見するのである。
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