四面楚歌

 

 

 家が動き始める少し前、天下の情勢は風雲急を告げていた。
朝廷に影響力を持つとされていた松永久秀がついに牙をむき、将軍足利義輝を暗殺したとの噂が世に駆け巡ったのだ。
 その噂が流れる少し前、薄暗い森の中。
泥に塗れながら少数の武士が一人の将を背負い、懸命に駆けていた。

手傷を負った将を襤褸で覆い隠して逃げる様は、あまりにも悲壮だった。

「どうしたらよいのか……誰を頼れば…」

「北へ、とにかく北へ逃げるのだ」

「明智殿を頼るのか?」

「ああ、かの地には義昭様がおられる。その伝を頼みにするほか…」

「待たれよ、このような有様の義輝様を見て、義昭様がお力添えして下さると思うのか?」

「それは……」

 声を殺し、夜の闇の中を縫って逃げ延びる武士達は道々で今後のことを話し合った。
口にするまでもなく、誰しもが思う。
将軍職に未練のある男、足利義昭にとっては、義輝は目の上のたんこぶだ。
このまま死んでくれた方が何かと都合がいいに違いない。

「し、しかし、血縁ぞ!?」

 血の繋がりがあるからこそ、このような時には疎まれる。
誰もが分かっていながら、その事実から目を逸らそうとしていた。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

「居たぞ!! 逃すな!!」

「くうっ…!!」

「ここは拙者が食い止める、皆は先へ!!」

「済まぬ!」

「木端武者共め、目にも見よや!!」

 寝る間を惜しんで夜の闇の中を走り、日の高い内は息を潜めた。
時に木の根を食らい、恥を忍んで民から追い剥いで命を繋いだ。
二十人いた供が、追撃にあい、一人、また一人と消えて行く。
ついに古参の武士六人と巻き添えを食った公家の一人が山間で立ち往生した。
絶命間近の義輝を囲み、死出の旅の供を…と、誰もが覚悟を決めようとしていた。

 供周り衆は義輝を木陰に隠し、男泣きしながら我が身を、主君の最後を嘆いた。
救いの手は、もうどこにもないのだと、彼らは諦めていた。

「お侍様方、どうされただ?」

 時が好転したのは、ささいな迷いが生んだほんの一瞬のこと。
闇の中にちらちらと舞う火の粉を認めて山の民が姿を現した時のこと。
 警戒するのに疲れ、呆然と見やれば、山の民は無垢な眼差しのまま彼らを見、動いた。

「よう分からんが…お侍さまにこの山道は険しかろうて…」

 民は彼らの間に進み出て、獲ったばかりの鳥の肉と、竹筒に入れて持っていた水とを施した。

「この身が朽ちようとする最中、このような施しを受けるとは…」

 嘆き腐る武士に山の民は苦笑する。

「わしらはそんなことは考えねぇ。お侍さまは大変だなや」

「何?」

「わしらの姫様の教えなんじゃ。困った時は御互い様ちゅーてなぁ」

 山の民は器用に捌いた鶏肉を焚火で焼いて、精根尽き果てている侍へと差し出した。

「ほぅれ、今は食うといい。元気が出るぞー」

「よいのだ、もう…我らは…ここで…」

 肩を落とす侍に紛れて、絶望を噛み締めていた公家の目に、次の瞬間光が宿った。

「…そうじゃ……まだ、手はある…」

 言葉を呑み、懸命について来た公家へと武士達が視線を向ける。
彼は暗殺があったその夜に、偶々、朝廷からの書を届けに来ただけだ。
いわばただのとばっちりでこんな目に合っている。そこを鑑みれば同情を禁じ得ない。
 荒事とは無縁そうなこの優男が、ついに気でも触れたのかと、武士達は半ば同情めいた眼差しだった。

汚れ切った束帯の下から煌びやかな扇を取り出すと、公家は山の民へと握らせた。

「ありがとう、ありがとう!」

「へ?」

「そちのお陰じゃ、そちのお陰で、麿達はまだ生きれるのじゃ」

「はぁ…」

 何が何やらという顔をしている山の民の前では彼は立ち上がった。
義輝の供周り衆が隠した茂みの中へと突き進む。

「ささ、義輝殿。先を急ぎましょう。救いの手が、待っておりますぞ」

「な、貴様!!」

 山の民の目を気にして立ち上がった武士の顔を見ることもなく、公家は、茂みの中に埋もれている義輝を背負い込んだ。力がなくて、すぐにふらふらと揺れたが、それでも彼の目には希望が満ちていた。

「山の民、麿の願いを聞いておくれ」

「はぁ、なんですかの?」

 もらった扇を開いたり閉じたりしていた山の民は、慌てて扇を腰にさして顔を上げた。
公家は、はっきりと言った。

「ここからへはどう行けば良いかな?」

「へぇ、姫様の所かい? 姫様の城へならこのままずーっと山を……」

 傷つき、息も絶えつつある義輝を支えるこの公家こそ、かつてに官位を授けた、あの使者だった。

 

 

「光秀、謙信が発ったそうよ」

「何故ですか!? 勝手をされては困ると、申し上げたはず…謙信殿は何故?!」

 北の大陸、明智城の天守閣で光秀が顔面を蒼白にして叫んだ。

「なんでもここ最近、あの地によくない影が見えるとか。毘沙門の力をお借りして、討払うと仰せでした」

 濃姫の隣に座していた蘭丸が言えば、窓際に立っていた利家が顔を顰めた。

「利家様、どうかされましたか?」

 蘭丸の問いかけに、利家は何かを言いたげに顔を上げるものの、すぐに言葉を呑んだ。
利家の前に、柴田勝家の姿があったからだ。

「なんでもねぇ、なんでもねぇよ」

「はぁ…」

「とにかく謙信殿を失うわけには参りません! すぐに増援の準備を!」

 光秀の声を受けて、室の隅に控えていた忠勝が立ち上がった。

「あら、貴方が行くの?」

「拙者、かような時にしか役に立たぬゆえ」

「稲もお供します!!」

 父に習い稲姫が立てば、真田信之、本多正信らが同じように立った。

「そう、狸の為に必死なのね」

 濃姫の言葉には一切答えずに会釈し、出て行く忠勝達の後を追うべく、柴田勝家が立った。

「叔父貴?」

 利家が顔色を変えれば、勝家は言った。

「客将にばかり働かせるわけにもゆくまい」

「勝家殿…申し訳ありませんが、彼らを頼みます」

 一度だけ頭を縦に振った勝家の後を追うか、追うまいか悩み、結局利家は追って出て行った。

 

 

 がらんどうのように静けさを纏った室の中に、入れ違いになるように足利義昭が飛び込んでくる。

「光秀、大変じゃ!」

「何事です」

「義輝が…兄上が松永久秀に討たれた!! 京へ上らねば、幕府が倒れてしまう!!」

 「このような時に何を!」と、喉元まで出かけた言葉を光秀は懸命にのみこんだ。

「…誠でありましょうか? 誰かの策略では…?」

 真意を問う光秀の意図に気が付いていないのか、それとも気がついて敢えて素知らぬ顔をしているのか定かではないが、義昭は言った。

「久秀はそちが気にかけている女子とも繋がりがあるそうではないか。
 此度の一件、裏で糸引いた者がいるとしたら、どうか?」

「それは…確かに…」

 ない話ではないのかもしれないと、光秀の顔に影が射す。
それを見かねて、明智玉―――ガラシャが声を上げた。

「父上、義昭様! の姫君はそんな方ではないのじゃ!!」

「玉」

 驚いたように光秀が愛娘を見やれば、ガラシャは懸命に述べた。

「先の懇談会で、わらわはの姫君を見ております。とてもお優しそうな方じゃった。
 久秀殿は…なんだかとても恐ろしい方のような気がしたが……姫君と仲良しという風でもなかったのじゃ」

「しかし美しき花には棘もある。その棘が毒を持っていないと、何故言いきれるのか!」

 義昭の目には今や空席にっている将軍職への欲しか映ってはいない。

「先に出陣した謙信らに何かあっては大事なのではないのか!」

『それは、分かっています……分かってはいますが…。
 敵が魔女であったならば、万全を期さなくては意味を成しません。

 嗚呼……どうしたらよいのか……信長様……私は、どうすれば…?』

 思い悩み、光秀は視線を落とす。

「光秀、魔女と今事を構えるの?」

 濃姫が問う。

「分かりません…とにかく今は、謙信殿の救援が先です。
 家と松永家に繋がりがあれば、松永家からの増援もありましょう。
 義輝様の身に何が起きたのかは、その時、明確になるはず……それで宜しいですか? 義昭様」

 有無を言わせぬ強さで問えば、気迫負けした義昭は渋々頷いた。
自分では戦うつもりは一切ないのだろう。
義昭は身を引くとこれ見よがしにブチブチ文句を垂れながら階下へと降りて行った。

「…これは想定外の戦、なんとか前哨戦として、決戦を回避できればよいのですが…」

 光秀の独白を聞いた濃姫は唇の端を吊り上げて嗤う。

「そうでなければ、どうなるのかしらね?」

「その時は……全力を尽くします」

「そう……楽しみね」

 

 

 山の民の助けを借りて千鳥足で山を降りる武士達は口々に公家を責め立てた。

「気でも触れたか! かの者の背後には、松永久秀がいるではないか!」

 彼らは公家を止めようと必死だった。
だが公家は頑として怯まず、最後まで我を押し通した。

「麿はあの地にてあの女子と見えた。決して悪事を働けるような女子ではない。
 明智を頼れぬ今、どこにいようとも同じじゃ」

「だからといって…」

「明智、松永、双方を敵には回せぬ。
 小国に身を隠すもよかろうが、何時、麿達の首を取り、保身に走るか分かりはせぬ。
 かような時、身を隠すのであれば…」

"ごめんなさい、私、今別の所に勤めているから…"

「第三の力を持つ国……欲のない女子の所じゃ」

 かつて領での漏らした言葉が彼の脳裏をよぎる。
懐かしく思うのか、はたまた政権闘争に疲れた者の心根を解す何かがあったのか、定かではない。
が、あの言葉が彼にとっては、何物にも代えがたい救いの手のように思えた。

「皆も腹を括りや。山中で果てると決めた今、どこで死のうと同じこと…。
 なれば人知れぬ山よりも、誰かの国の方が歴史に名を残せるはずぞ」

 公家の言葉に納得したのか、武士達が一人、また一人と彼に手を貸す。
山中を走る獣道を使い、彼らは先を急いだ。
へと続く関に差し掛かる所で、松永家の忍の追撃にあったが、それも残りの武士が命がけで凌いだ。
 山の民の助けを借り、命からがら将軍・足利義輝と公家は領の関の中へと逃げ延びた。
への侵攻を頑として禁じる久秀の手前、追撃が出来なくなった松永家の忍は、焦りも露に自領へと引き返す以外に術がなかった。
 彼らはまだ、本国で掲げられた方針転換を知らなかった。

折しもその関には、急務の為に呼び戻された服部半蔵が在籍しており、彼の秘術を持って義輝は一時の命脈を繋いだ。
 の思惑とは別の所で、を取り巻く運命の歯車は急速に回り続けた。

 

 

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