烙印の代償

 

 

 度重なる悪夢に晒され、疲れ果て、は肩を落とした。
閉じ込められた室の中、布団の上で蹲る。
あの後何があったのかは、分からないし、分かりたくもない。
心を詰られ、体を汚され、気が狂いそうだった。
 出口の見えない深淵の迷宮。
夢といえど、そこかしこに現実的な感触が潜む夢。
この夢の中から、どうしたら逃れられるのかが分からない。

『助けて、助けて…助けて…!! こんな所にいたくない!!!
 慶次さん、三成、左近さん、幸村さん、孫市さん!! 小太郎!!! 誰でもいい、ここから逃がして!!!』

 声にならない願いを心で何度となく叫んだ。
敢えて声にしなかったのには、理由がある。
どこであの影が聞いているか分からない。
自分の声が彼らの名を呼ぶことで、彼らの身に災いが降りかかるとも限らない。
それを極力避ける為には、必死で痛みを堪えて、声を噛み殺すしかなかった。
 敷布に爪を立て、肌が荒れる程泣き続けてどれくらい経っただろうか。
の耳に、異なる声が聞こえてきた。

「ひっく…うっく……うっ、ううっ…ひっく…」

 幼い子供の声だ。
懸命に何かに耐えようとする声。
苦しそうに泣き続ける声。
 出所を探して、は顔を上げた。
薄暗い室の中には、誰もいない。

『どこ…? 誰が、泣いているの?』

 乱れた着物の胸元を元に戻してよろよろと立ち上がる。
声の出所を辿ろうと耳を澄ませば、声はどす黒い染みの残る障子の向こうから聞こえていた。
恐る恐る手を伸ばし、ほのん少しだけ障子を横に引いた。
 すると木漏れ日が顔に射した。
眩しくて何度か瞬きを繰り返す。
目が隣室の明るさに慣れて来た頃、気がついた。
 障子一枚隔てた向こうは、見たこともない城の天守閣だった。
落ち着いた調度品が三面の壁を埋め尽くす室は、整っていながらどこか物悲しさを纏っていた。
一言で言うなら、"孤独"がそこかしこに漂っている気がしたのだ。
 そんな室の真ん中で、年端もいかぬ少年が、小さく身を縮めて泣いていた。

「うっく…うっう…ううう……いやだ…いやだよ…」

 幼子の泣き声に胸を詰られて、がそろそろと室の中に進み出る。

「どう…したの? 何を泣いているの?」

 この子もまた、あの影に囚われているのかと不安になり声をかける。
少年は両手で顔を隠して、泣き続けるばかりで答えない。

「したくない……こんなこと……したくないんだ…本当は……したくない…」

「え?」

「でも…仕方ないんだ…」

「何を言って…?」

「私が、しっかりしないと………あの方が、また泣いてしまう……嫌なんだ……もう泣かないでほしいんだ」

「泣く? 誰が、誰を泣かせているの?」

 彼の背へと進み出て、ゆっくりと抱き締める。

「話して、お姉さんに…聞かせて? 何が苦しいの? どうして泣いているの?」

 少年は肩をぷるぷると震わせて泣き続ける。

「……もう…誰も…殺したくはないんだ……」

「!」

 想像もつかぬ言葉が出て来たことに驚くと同時に、戦乱の世であれば、このような幼子であっても時として人を殺める業を背負わなくてはならないのかもしれないと認識を改める。

「でも…私がしっかりしないと……泣いてしまう……あの方が、苦しんでしまう……」

「あの方? お殿様かな?」

 少年は小さく首を横に振った。

「先生とかかな?」

 また横に振る。

「いいんだ…何と言われても……この世の全てが、私の敵になっても…私は、構わない……。
 でも…辛くて、辛くて…苦しくて…仕方がないんだ」

「どうして?」

「頑張っても、我慢しても……何時も、何時も、あの方は泣いている……微笑んでいてほしいのに………
 私には笑いかけては、くれないんだ……」

 彼を慰めるように頭を撫でた。
せめて彼の背を包むこの温もりが、彼の傷ついた心を癒してくれますようにと願う。

「…どうして……私じゃ駄目なの? どうして…何時も泣いているの…」

「君は優しいね。大切な人の為に、こんなにも傷ついて…苦しいはずなのに、一生懸命、我慢しているんだね」

「私など…大したことないのです。本当にお辛いのは……我が君の方…」

「お姫様…かな?」

 問いかければ、少年は顔を伏せたまま小さく一度だけ頷いた。
そしてゆっくりと指を掲げて、室の奥の白壁を示した。
思えばそこにだけ調度品がない。
箪笥も、机も、花すら飾られていないそこは、この室の上座に当たる。

「あそこが、何?」

 不思議そうに問いかければ、少年はたどたどしく訴えた。

「我が君……泣かないで……私が代わりに……頑張るから……もう泣かないで…」

「あっ…」

 顔を伏せたまま、少年が立ち上がる。
の手から離れた少年はゆっくりと歩を進める。
と、同時に、白壁が歪んだ。
否、歪んだのは壁ではない。
少年と壁の距離が近づく度に彼を取り巻く空間が歪んだのだ。

「駄目! そっちに行っちゃ…!」

 嫌な予感に思わずが手を伸ばした。
少年の背に触れようとした瞬間、目に見えぬ何かに弾かれて板間に倒れた。
の転倒を意に介す事なく、ギ、ギ、ギと床は軋む。
上がる音の質感が、子供の重みが生むものではなくなりつつあることを察知して顔を上げた。
案の定、少年は成長し、逞しい侍へと成長してゆく。
 と彼の間を阻む空間の歪みが消えた。
は立ち上がって後を追いかけようとするが、再び弾かれてその場に尻餅をついた。
 二人の間には、ガラスのような無色透明の隔たりが出来ていた。

「ねぇ、待って! そっちに行かないで!!」

 が呼びかける。と、時を同じくして、彼の背に何かが現れて寄り添った。
その何かは球体状のからくりのようだが、全体像は色の濃い影に包まれていてよく見えない。
それが、彼に向けて、何事かを囁いた。

 瞬間、の背に言い表しようのない怖気が走った。

「駄目! それの言う事を聞いては、こっちに戻って!!」

 本能の感じるまま、叫んでも彼は歩みを止めない。
背に貼りつく影の言葉に操られてでもいるように、彼は一度、二度と頷き続けた。
不本意な想いが拭えないのか、彼の伏せた顔―――――顎を、ぽろぽろと涙が伝い落ちる。
それはまるで彼の中にあった純真な何かが、悪しき者によって緩々と吸い取られていくように見えた。

「立ち止って!! 言う事を聞いてはだめよ!! したくない事は、しちゃいけない!!!
 自分の心に嘘はつかないで!!!」

 の声を聞いて、彼が動きを止める。
だが彼は、の助言を受けて立ち止ったのではないのだと、すぐに分かった。
 彼は腰を落とし、白壁の前で膝をついたのだ。
と、同時に、白壁の中に何かが映り込んだ。
臣下の礼をとる彼の逞しい背中の向こう側、白壁に映り込んだのは、紛れもなく自分の姿。

「!」

 映し出されているグラフィックの中のは、一度たりとも彼を見ることはない。
ただ憂いのある顔で、遠くを見ているだけだ。
 小さく息を呑んで、瞬きをする。
それと同時に、白壁の中のの頬を一滴の涙が伝い落ちる。

「…我が君……」

 それを見て、彼は自分が鞭打たれたかのような悲痛な呻き声を上げた。
混乱し、息を呑み続けるの耳に、彼の独白が届く。

「構わない……我が君の為……私が…羅刹になる………私が汚れれば…我が君は……汚れない…」

「……貴方…一体……?」

 の独白を余所に、彼の背後で影が蠢き、甘言を囁いた。

「そうです、心を強く持ちなさい。貴方はマスターの為の地盤を作る選ばれし子。
 貴方の力が、マスターを救うのです」

「分かってる……私が…お救いするのだ…まずは力を手に入れなくては……だが…どうすれば?」

「簡単な事です、ある場所から奪えば良い」

「奪う? どこにあるというのだ?」

「あるではありませんか、すぐ、傍に」

「…お前は、私に簒奪せよというのか?」

「力は正しく使われなくてはなりません。それが、貴方の父君が仕えた主に成せますか?
 この方の為の国と、今ある国、重みがどちらにあるのか、良く考える事です」

「………考えるまでもない、我が君の国こそが…全ての者に平穏を与える」

「その通りです、では、何が最善なのか。貴方にならば、分かりますね?」

「……無論だ…。主家を乗っ取り…地盤を作る……あの方の為の国を作るのだ…」

「私が力をお貸しましょう」

「…力だ…力を手に入れる………手にした力で将軍を殺し…明智を滅ぼし…帝を廃し……我が君に天下を捧げる…」

「その通りです。さぁ、顔を上げて……貴方のマスターが、貴方を待っています」

 再度深く頭を下げた彼の背が見慣れてしまった白い束帯に包まれる。

「あ…そんな…そんな…ことって…」

 に悪夢を見せ続けたはずの影と、眼前で平伏している男の風貌が、とぴたりと重なる。

「そんなのって…ない……どうして? どうしてよ…なんでよ? なんでなの…」

 打ちひしがれるの言葉に反応することなく、平伏していた男は顔を上げた。
彼の意識は、もう白壁の中にしか向いていなかった。
 束帯の裾を小さく揺らしながら、彼が立ち上がり、ゆっくりと振り返った。

紛れもない。見間違えようもない。
迷いを捨て、本心を涼しい顔の下に隠した。
落ちて来た緩い前髪を後方へと撫でつけて、呼吸を整える男の姿は、松永久秀。
世に簒奪者として名を馳せた梟雄だ。

 

 

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