烙印の代償

 

 

「……うそ……何、これ……どういう…こと…」

 震えてガチガチと歯が鳴った。
鳥肌が全身に立ち、体からは力が抜ける。
その場から動けずにいるの姿は、既に彼には見えてはいないのだろうか。
彼は何事もなかったかのように歩みを進め、の横を通り過ぎた。

「からくり! 草より報告が上がっているぞ。
 我が君が降臨されたというではないか、何故、我が領下に現れぬ? 話が違うぞ。
 すぐにお迎えに上がらなくては…」

「お待ちください、久秀。その者が真のマスターであると、断言できる材料は現状では皆無です」

「何?」

「マスターの名を語る、悪しき者やもしれません」

「……しかし…かように鄙びた地で何が出来る?
 もし万が一、我が君の身に危機が訪れれば、先の世はどうなる?!」

「久秀、時を待つのです」

「時、だと?」

「はい。かの者が真にマスターであれば、必ず難局を打破します」

「それでは、意味がないではないか。我が国は、私の国ではない、我が君の為の国だ」

「いいえ、久秀。貴方にはしなくてはならないことが山とあります」

「………我が君の御前に参上するよりも重要というのか」

「はい。南に小西・細川、背後には大友家。西には毛利・北条家……。
 貴方が動き疲弊すれば、遥か北で力を蓄える明智家を、誰が滅ぼしますか? 
 我が君には出来ぬことであればこそ、私は貴方に頼りました。その意味を失念してはなりません」

「…国を大きくすることが急務だと、そういうのか」

「肯定します。かの地には体よく捨て駒になれそうな者が集っているようです。
 今はその者達に任せ、貴方は整えるべきものを早く完全なものに作り上げるべきです」

「……しかし…」

「どうしても気がかりというのであれば、他のCubeを派遣しましょう。これで逐一情報が入ります」

「最悪の場合、からくりに我が君の身を守らせることが出来る…ということか」

「はい」

「よかろう。だが念の為に聞いておく、捨て駒になれそうな者は何人いる?」

「現状では三人。前田慶次、真田幸村、島左近」

「ふむ…前田慶次…か。よかろう。しばし彼らに預け置く」

 寄り添うからくりとの会話を切り上げ、久秀は身を翻した。
からくりは姿形を茶釜へと隠して、久秀の動向を見守る。

「柳生、皆を集めよ! 」

 久秀が声をあげた。
評議場へと繋がる襖が、控えていた小姓の手によって大きく開け放たれる。
 強い逆光にが顔を顰めれば、吹きこんだそよ風が久秀の頬を撫でた。
瞬きを繰り返していたの鼻孔を、柔らかい桜の香りがくすぐる。
その香りに安堵する自分に驚き、息を飲んでいると、久秀の背の向こう側から多くの声が上がった。

「御館様!」

「戦支度、万時整ってございます」

「お下知を」

 大きく瞼を開けて、まっすぐに見やれば、何時の間にか、彼の前には多くの将が集っていた。
皆甲冑に身を包み、指示を待ち、今か今かとばかりに平伏している。
 小姓から捧げられた指揮丈を取った久秀は、地図を指し示しながら淡々と命を下し始めた。

「北条にを叩かせる。今の家であれば、そう簡単には落ちまい。
 その間に、私は毛利と結び、南を平定する。手始めは小西、細川だ。その後大友家が治める九州を平定する。
 将軍家への埋伏の毒も忘れるな。必要であれば各地の戦に介入できぬように金を使い貴族どもを懐柔せよ。
 偽報を打ち、小国を動かせ。明智の進軍を押さえるのだ。あの男を領へと侵攻させてはならない」

「仮に北条にが押し負けるような事があれば如何しますか?」

「憂う事はない。その時は毛利を焚きつけ、北条を滅ぼすだけだ。
 仮にも前田慶次がいる国だ。私が動くまでもたぬ程、脆弱でもあるまい」

「分かりました、ではそのように備えます」

"したくない……こんなこと……したくないんだ…本当は……したくない…"

「…嘘……なに、これ……一体…どうして…」

 彼の指令を受けて、始まった戦。
圧倒的な武力により、平定されてゆく日の本の南東。
そして彼の耳に齎される情報の数々。

「毛利と北条が結んだか…都合がいい。ここで毛利を絶やし、我が君の土地を増やす事にしよう。
 周辺の国々に使者を出せ、決して手出しさせてはならぬ」

「戦況報告です。膠着状態に入りました。
 本国・後方都市にて竹中半兵衛・伊達政宗が調略を施しているようですが成功率が上がりません」

「内容は?」

「毛利の隣国へ、本隊はが引き受ける故、毛利へ攻撃をするように、と。
 竹中半兵衛は攻めとった土地はそのままそちらの物に。
 伊達政宗は横槍成功の暁には所領復興の為にへは幾許かの心付けを、と働きかけているようです」

「要求が低すぎるな。それでは泣き落しにしか見えず、動きたくはなるまい。
 が倒れれば次は我が身だ。皆目先の欲より保身に走ろう」

「どうしますか? この状態は長続きはしません。マスターの心身にも限界が訪れています」

「! まさか我が君が戦地におわすのか!?」

「肯定します。毛利の攻撃が執拗な為、動かせぬようです」

「そうか…我が君が、かの地に……見過ごせぬな…」

「久秀? 何をするつもりです?」

「予定を変える、毛利は今すぐ併呑する」

「もうしばらく疲弊するのを待つのが上策です」

「からくり。窮鼠猫を噛むという言葉もあるのだ。大魚を狙う間に我が君に何かがあってはならない。
 我が君の為であれば、犠牲など憂う様な物でもあるまい?」

「了承しました。具体的にはどのようにしますか?」

「竹中半兵衛・伊達政宗が働きかけた領地へ密書を出せ。我が名を使い、毛利簒奪を匂わせる。
 奴らには金山を獲得の後、向こう三年の資金援助、または朝廷への官爵獲得の働きかけの確約を告げよ」

「財がある者には名誉を。名誉しかない者には財を…ということですね?」

「ああ」

「これで現状打破が出来ますか?」

「そうなろうな。もし仮に……動かなければ……その時は…。
 …毛利だけではなく私と敵対する事になる旨、匂わせれば迷いも消えよう」

"でも…私がしっかりしないと……泣いてしまう……あの方が、苦しんでしまう……"

「久秀、戦況が動きました。黒田官兵衛による簒奪成功です」

「そうか。何よりだ」

「ですが計算外です。明智領と領が隣接しました」

「……ふむ……今の家に明智と戦う力は残ってはいまい。朝廷を動かし、明智に使者を」

「どうするのです?」

「我が君にはしばし休息が必要だ。同盟を組む」

「明智とですか?」

「いや、我が君と隣り合う国々全てと、だ。
 どのような小国であろうとも、我が君の元へ攻め込ませはしない。
 我が君には指一本、髪一房、触れさせぬ」

"我が君……泣かないで……私が代わりに……頑張るから……もう泣かないで…"

「……久秀……さ……ん………貴方……まさか…ずっと、ずっと……私の為に…? 私だけの為に?!」

 膝を抱えて泣いていた少年の声がの耳に蘇る。

"いいんだ……我が君の為……僕が…羅刹になる………僕が汚れれば…我が君は……汚れない…"

 その声はやがて恋歌を詠む声と重なった。

 

"玉の緒よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの弱りもぞする"

 

 今の今まで嫌悪しているだけだった。
怖れるだけだった。
だが今は、彼が何を思い、ただ一人、他でもないの為に、どんな道を歩いて来たのかを知った。
こうなってしまっては、彼の豹変を責めることなどできようはずもない。

『ごめん……ごめんね……久秀さん……ごめんなさい…!! 私の為に……なんて酷い事…!!
 こんな…望んでもいない事を、ずっと…ずっと貴方にさせ続けてたなんて…』

 ぶるぶると震え、が両手を地について頭を下げる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!! ごめんなさい!!!
 もう、いいから!! もう……いいの……もう…苦しまないで……これ以上、自分を押し殺したりしないで…!!」

 けれども久秀にはの声は届かない。

「久秀、時間をかけすぎです」

「どういうことだ!!!」

 彼の背に貼りつく影が彼を惑わせる。

「時は移ろうのです、久秀」

「俺の半生を掛けた計を……掛け過ぎていると…お前はそう言うのか?」

「貴方はよくやっています。マスターも貴方の労を知れば、必ず感じ入ります。
 ですが迎えに行くのは今ではありません。今は明智を討つことが先決です」

 彼の唯一の拠り所を、想いを踏み躙り、狂気へと駆り立てて行く。

「本来ならば敬意を表さねばならない主君に懸想し、その想いを隠そうともしない。
 貴様に私を詰る資格があるとでも思うか?」

 どうして三成達があのような仕打ちを受けたのかが分かった。
これは嫉妬だ。長きに渡る切ない恋慕の情に身を焦がし、人生を狂わされ続けた男の、向けどころのない嘆きが引き起こした狂気だ。

「…久秀さん…」

 彼の思いの深さは分かった。
だとしても、人の心は簡単には塗り替えられるものではない。の心でも、彼の心でもだ。
今のには愛する者がいて、そんなに松永久秀は半生を捧げ、人知れず恋心を抱き続けてきた。
 人が人を思う事は、咎められる事ではない。
まして彼は、正邪の判断すら出来ぬ時分に、何者かによって傀儡にされたのだ。
その重みが分かるから、は彼を責め詰ることはしなかった。
ただただ息を詰めて、彼に謝罪し続けることしか出来なかった。

「お願い……久秀さん……目を…覚まして……きっと他にも道はある……そんなに自分を追い込まないで……」

 の声が届かないのか、久秀は狂気に満ちた目で領を見据える。

「…我が君にはしばし眠って頂く……。
 配下も、明智も…朝廷も、全てを根絶やしにする。
 天下は我が君の為にある。我が君が嘆き、苦しむ必要はない。
 全ては眠っている間に…終わらせる……我が君が次に目覚めた時こそ…泰平の世が我が君を包み込むのだ」

 彼の言葉の終わりと同時に、夢幻の迷宮は暗転した。
再びの意識を本願寺の呪詛が捕らえた瞬間だった。

 

 

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払いきれない代償。(20.04.16.)